劇団解散?! 【新生ASC白書 その1 回想の巻】

身軽になって、レスポンスをよくしよう!
 
前回の日記でそう書きましたが、ただいま実行中であります。
まもなく満12歳になろうとする劇団ASCを解散します。
って、いうのはウソです。
 
いや、なまじウソではありません。
劇団体制そのものを一度見直す時期にきていることは間違いありません。
というかですね、しばらく前から劇団体制と言えていたかどうかが、疑問。
それを検証するための回想が、本日のテーマ。
しばらく、お付き合いを。
 
ふりかえれば、ASCは創立当初はローマでいえば共和制。
実は初代ASC代表は、鈴木麻矢なのです。当時若干21歳。
彼女を囲むように30代半ばにさしかかろうとしている野郎3人が副代表。
その副代表に、僕や菊地がいた。
(まあ劇団結成の言いだしっぺは、もちろん僕だけど。)
 
創立記念日の1996年4月23日の少し前、4月1日、結成準備ミーティング。
朝10時ころから結果的には24時間のミーティング、総勢何名いたんだろうか、
20名くらいかな、中野坂上新築マンション3LDK家賃27万円のリビングが当時の事務所。
すごいでしょ、実はその新築マンション、僕が個人で借りた。
そのマンションを借りたから、僕の本気をみんなわかってくれたみたい。
(結果的には、1年足らずで引越し。創立以来の相談役、敬愛する簡憲幸さんのご好意で
 なんと日本橋に稽古場が持てた。)
 
でそのミーティングで、勢い余って、そしてみんなの総意で、
秋の旗揚げ公演をなんとグローブ座でやることが決定。
この言いだしっぺは、僕じゃない。
 
え〜!??? ってなもんです。
いったいいくらかかるとみんな思っているんだろう? 
そう、実は僕はあまり賛成ではなかった、もちろん予算面のことで。
でもみんな、目を輝かせてしまった。
菊地など夜中に若手何人かを引き連れそのマンションを抜け出し、
すぐ近くのデニーズで、別ミーティング。
そのころから単独独自の行動をとるのが好きだったなぁ、ヤツは(笑)
でも一番目を輝かせたのは、僕かもしれない。
その僕の目を見て、みんなもやる気になってくれたんだ、きっと。
 
よし、グローブ座だ。
ということに相成り、
それまでグローブ座カンパニーで活動していた僕が中心となるのは必然。
その流れの中で、第2代ASC代表に、僕が着任するのでした。
 
そしていよいよグローブ座での結成記念公演「ジュリアス・シーザー」。
まあ、いろいろありました。勢いあるいい公演でした。
旗揚げで動員1200人は、立派な数字。
 
その勢い余って、2日間3ステージの公演で1000万円かかってしまった。
回収できたのはその半分の500万、つまり赤字がなんと500万。
大劇団ではないですからね、いきなり500万の赤字はけっこう致命的。
しかし、何とか存続、12年。
 
今思えば、ここからなんとなく流れが変わってきた。
なぜか。
その赤字を僕一人で背負わなければならなくなったから。
グローブ座がいいって、みんなが言ったんだぜ〜〜、そりゃないよ。
なんて泣き言も言っていられない、僕は劇団代表。
どうにか回収しようとあがき、失敗。
結成2〜3年で、赤字は1000万円近くに。
全部が僕の双肩に。
 
有名人じゃないですからね〜、
売れない役者に1000万円はきついっすよっ。
(現在その半分ちょっとを返済済み・・・)
そのいきさつをメンバーも察してか、劇団内部で
僕の発言権がどんどん増していった。
それまでは、月1回の例会のほか、制作部やワークショップ部など
それぞれの部会のミーティングなど頻繁に行われ発言が飛び交ってもいたが、
だんだんみんな無言に。僕ばかりがしゃべっている。
まあそうなるよね、普通は。
やっぱりいろいろ言いにくくなるとは思う。
僕も心苦しくなってきちゃった。だった、赤字の報告ばかりなんだもの。
 
そこで自然と打ち合わせも減ってきた。
また、結成2〜3年で辞めていく旗揚げメンバーも何人かいて、
(このあたりで、1998年末で、ASCファーストシーズンの終了かな)
それでも残ってくれた菊地や鈴木、それに石山などと
再起をかけて(ダメなら解散で)上演したのが、
1999年春の「から騒ぎ」。
 
これが、よかった!
経済的には赤字にならなかった程度だが、芝居がよかった。
演劇誌の劇評などでも絶賛された、これホント。
演出コンセプトはほかでもない、ピーター・ブルック大先生の「何もない空間」。
この作品から、現在のASC流の基本がスタートした。
ASCのセカンドシーズンの始まり。
ここから3年ちょっとくらいは、劇団体制としては、最もよかった時期。
「から騒ぎ」成功でメンバーも増えた。
結束力があった。気持ちよかった。
全員で、いい作品を生み出していた。
 
この時期もっと劇団として売っとけばよかった。
やっぱり僕らは役者馬鹿なんだなぁ、とつくづく思う今日この頃。
経営的視点からきちんと見据える人間がこの時期いれば、ASCはもっと飛んだ。
作品はよかったんだけど、赤字の減りが牛歩。
 
でその後、やっぱりみんな少し疲れてきた。
僕や菊地はこの頃40歳越えちゃったし、不安にもなりますわ。
で、ASCは、というより僕は、若干暴走をし始める。
というより、よりコアな芸術的世界(?)に突入開始か。
ASCのシーズン3。
 
経営不安を押し切るかのように、
“4人の俳優で四大悲劇を”シリーズを開始させたのもこの時期。
またしばらく離れていたタイトルロールも、どんどん演じるようになる。
「やっぱり僕が演じなきゃ、ASCじゃない?!」ってな感じ。
それ以後現在までの5年間くらいが、僕自身が最も疾走した時期かも。
かつ、もっとも過酷に自分を追い込んでいたし、
あえてそれを試みてもいた。
どこが、自己の限界点か。
 
もともとかなりの自虐嗜好。
大学の恩師、今は青年団志賀廣太郎氏のお墨付き。
さらにこのサードシーズンから、
同じく大学来の親友である石塚智美が制作を手伝ってくれ始める。
きっと彼女の使命は、僕の暴走を食い止める役割だったんだと今思った。
 
自虐的過酷傾向が、この時期上演した作品にも表れている。
なんというか、ゲイジュツ的アンダーグランドワールドの展開。
その集大成が、昨年暮れの第36回公演
「タイタス・アンドロニカス」なのかもしれない。
 
借金を背負うことで図らずも内部で発言権を増してしまい、
対等な相談相手を失ってしまったことにより、
自分個人の演劇への情熱だけが唯一の支えとなり、
結果、自分が代表を務める劇団で自らが孤立する。
 
さて、ではどうするか?
10周年記念公演シリーズ(3作品)のとき、
組織の抜本的改革を目指したのも、大きな危惧が自分の中にあったからだ。
このままでは、いけない。
そしてその改革は、失敗に終わっている。
「タイタス・アンドロニカス」は、そのキャッチコピーのように
新生ASCが贈る公演、にはならなかった。
このあたりに関しては、追って書きます。
 
が、現在、真実の意味で
抜本的改革をなさねばならない時期にさしかかっている。
単に、解散ではいけない。