事実は、のこる。

 
出会いがあり、別れがある。
別れは、衝撃的なほうがいい、たとえ憎まれようと。
 
憎んだほうは、憎らしい相手を忘れるためにも、
新たな人生に旅立つ。
そこには新たな産みの苦しみがあり、転機に成功すれば、
その苦しみは誇りとなり、自信や財産となる。
そのときには、憎しみはほぼ忘れ去られている。
 
憎まれたほうは、そのまま。
「最善を尽くしたつもりなのに、なぜ?」
後悔のみ残る。
せいぜい自分にできるのは、なぜ憎まれてしまったのかを分析するくらい。
その分析結果を今後の教訓にできたとしても、
当人との関係は、もう修復できない。
相手がその後どんな人生を歩んでいくか、幸福になるのか、
知るすべはない。
  
が、救いはある。
   
憎んだほうが、転機に成功し、人生に成功したとすれば、
その憎しみがきっかけとなっている、
たとえ本人はそのことを忘れているとしても。
 
また憎まれたほうは、相手が人生に成功していることはもちろんのこと、
なにひとつ直接知らされることはない、たいがいの場合。
 
つまりは、憎まれたほうも憎んだほうも、その後の人生において、
具体的には何も関係はしていない、ように思える。
   
が、事実は残る。
   
過去双方が、関係を持っているとき最善を尽くしていて、
それでも誤解や行き違いから片方が憎しみを持った。そして、別れた。
 
そのことにより、憎んだほうに、人生の成功がもたらされる。
それは、事実。
互いに、自覚していなくても。
  
マイナーな感情こそ、人生の成功の種。
嫉妬心、独占欲、劣等感、そして、憎悪。
 
これらがまず生まれ、次にメジャーな感情の誕生。
向上心、寛容、克服、そして、相互の愛。
 
互いに自覚できなくても、過去双方の関係には意味があった。
なぜなら、そのことがきっかけとなり、少なくとも片方が幸福となれば。
自覚できなくとも、意味ある人間関係。
それは、事実。 
 
憎しみではないが、芝居もまさにそう。
芝居は、衝撃的。だが、
観客の人生にどんな風に影響していくのか、創り手はまったくわからない。
わからないが、確実にポジティブに作用しているはず。
そう思わなければ、やっていけない。 
 
自覚できなくとも、記憶や記録、史実に残らなくとも、
人と人の関係に、無駄はない。
それがたとえ、別れのときに
好ましいと思えない類の関係で終わったとしても。 
 
別れの後、互いにどんな人生を歩んでいるか知る由がなくとも、
互いに生きているそのこと自体が、もっとも貴い事実。
 
人と人との関係には、タイムラグがある。
別れてからずいぶん時間を有して、初めて意志の疎通ができることもある。
 
別れには、必ず痛みを伴うが、それでいい。
痛み。
決してメジャーな感覚ではないかもしれないが、
人の人生には必要不可欠なもの。
 
他者にまったく影響しないような、
価値のない人生など、ない。
 
U〜NN,なんだか今日はまとまらない・・・