ドラマのバトン。

先日の日記にtanakaさんがコメントを下さった。

4月24日酒井良一さんの劇評。
最近、このブログをチェックするのが、日課になってしまいました。
「ペリクリーズ」の一人の登場人物を複数の役者で演じるという事については、以前にも書き込みさせていただいたように、登場人物に感情移入しにくいというデメリットは有りました。が、メリットも多々有ったように思います。一つは観客の集中力を持続させる効果。もう一つはスピード感。(続く)

その中でのご提案で、ひとつの役を複数人で順に演じる場合に、観客にその交替をわかりやすく表現する手法として

役者が交代するきっかけを、観客に判りやすくしたら良かったのではないでしょうか。例えば、ボールか何かをパスで回しながら、パスを受け取った役者がペリクリーズ役を演じ、他の役者はローテーションで配役が決まる。

というようなアドバイスをいただいた。そのことを昨日考えていた。具体的にどのようにするかはすぐに思いつくが、考えていたのはちょっと別のこと。なぜこのようなご意見をいただいたか、その理由のほうだ。そこで思いついたことは、「ドラマのバトンがうまくリレーされていなかった」という反省。
 
たとえば、1幕1場でアンタイオカス王の姫を演じた日野が次の場面ではペリクリーズを演じる。アンタイオカスの場ではペリクリーズは福岡君だった。なぜ日野がわざわざ福岡君から交替する必要があったのか。単なる入れ替わりでしかないなら、観客にとっては無意味、むしろ邪魔だ。交替するからには、それによる劇的効果がなければならない。この場合の交替による劇的効果は、苦悩の共有だ。アンタイオカス王の姫は近親相姦を強要されている(今回の演出)。そこにいかんともしがたい苦悩がある。その姫に好意を持ちその秘密を知り姫の苦悩も感じ取り、が姫の苦悩を取り除くことはできない無力なペリクリーズは、求婚のためやってきた姫の国から逃亡するしかない。ペリクリーズに好意を持った姫は、秘密を知った彼が父に命を狙われることを悟り、それを阻止するためにあえて自ら父のベッドに向かう(今回の演出)。日野演じる姫の「苦悩バトン」がうまく福岡ペリクリーズにリレーされれば、日野が次にペリクリーズを演じることにドラマが生まれる。
 
このことは演出していて気がつかなかったわけではなかった。が、それを深めていくことに集中できなかった。物理的な時間の制限と、若手の自主的創造性を邪魔したくなかったからだ。前者は稽古日数の問題、後者は理論を意識するとすぐに身を固めてしまいがちな彼らの特質への配慮。
 
やりたい役をその衝動に従いまずは素直にやってみる、ということを稽古では大切にしてきた。自主性重視、意志の尊重による演技の力強さの実現、また説明的な理屈っぽい演技にならないためだ。いい結果も随所に出た。がそのことを優先するあまり、ドラマのバトンリレーを僕は強調しなかったし、それゆえ若手たちは意識しなかった。僕にも彼らにもその余裕がなかった、というのが実際のところだろう。
 
ではここで参考までに、もしドラマのバトンということを第一義に演出的な観点から配役するとどうなるか、以下に列挙してみる。もちろん俳優が、その意味とドラマ性を理解したうえで演じることがなければ、観客にはやはり分断されて伝わってしまうことは言うまでもない。

福岡幹之 
【休憩前】ペリクリーズ(アンタイオカス場面)・ペリクリーズ(セーザとの出会いから休憩まで)。
【休憩後】女郎屋の亭主、いろいろ。
 
日野聡子 
【休憩前】アンタイオカスの姫・ペリクリーズ(セーザとの出会いまですぐにセーザへ)・セーザ・セーザをやりながら赤ん坊マリーナの泣き声。
【休憩後】マリーナ(ペリクリーズとの再会まで)・セーザ。
 
秋山祐司
【休憩前】アンタイオカス・ダイオナイザ。
【休憩後】ダイオナイザ・女郎屋のおかみ。
 
真鍋良彦
【休憩前】サリアード・漁師2・クリーオン。
【休憩後】リーオナイン・ボールト。
 
野本由布
【休憩前】漁師3・フィロテン。
【休憩後】フィロテン・いろいろ・マリーナ(ラスト親子再会の場)。
 
脇宣彰
【休憩前】いろいろ。
【休憩後】いろいろ・ライシマカス。
 
彩乃木崇之
【休憩前】ヘリケーナス・サイモニディーズ・セリモン。
【休憩後】ペリクリーズ(マリーナとの再会・親子の再会の場)。

以上は、実際の配役を元にしてドラマバトンのリレーを考えてみたキャスティング。このキャスティングでは、休憩前(=ペリクリーズの試練の幕)までは、日野と福岡君でドラマを回すことになる。そして休憩をはさみ、日野がマリーナ&セーザとして休憩後(=マリーナの試練と再会の幕)にドラマを橋渡しする唯一の役回りとなっている。
秋山の役は、「試練」だ。ペリクリーズとマリーナへ試練を与える役を担当。
真鍋はすべて、いい人なのか悪い人なのか実のところわからない役どころを担当。ある種道化的な存在。真鍋の陽気でユニークなキャラクターが活きる。
野本くんは、ペリクリーズにもマリーナにも親密で好意的な役を担当。休憩前の幕で漁師3としてからむペリクリーズは日野、フィロテンでからむマリーナも日野、ラストのマリーナを演じるときはセーザが日野。いつも劇的な意味合いを持つシーンでは女性同士でからむことになる。「母性」というテーマに関係する役どころを担当する。(フィロテンをマリーナに好意的な人物として登場させたのは今回の演出)
脇くんは、今回の合宿で突如現れた彼の爆発的な3枚目キャラクターを活かし、全体を通して安心できる癒し的な存在としていてもらう。全編ガワー的存在。実際彼もそんなことを望んでいたと思う。そしてクライマックスの再会の場で、真鍋とはまた違うそのコミカルな資質を活かしライシマカスをやってもらいたい。
最後に僕の担当する役が担うドラマは、「父性」だ。
 
実際のキャスティングもこれに近い形ではあった。が、にごりも全体に多々あったため、俳優個人の持つドラマとしての役割はやはりぼけた。その理由は内部的事情。たとえば若手には少々荷の重い役どころをさらに僕がやり、「父性」という役割をもうひとつ広げ若者に試練を与えかつ見守りもする存在である「大人」とした。また、イジワル役でのほうが本領を発揮する日野に、合宿中休憩後のダイオナイザをやらせてみたところあっという間にものにした。さらにそれまでそのダイオナイザをやっていた野本がマリーナに回ったところ、いじめられる芝居がなんとも絶妙で少々あざとい日野マリーナよりもよかった。二人の相性が役交替でぴったり合った。よって、この場面は急遽役が入れ替わった。ドラマと理論に固執し硬いままの二人を舞台にあげるよりも、二人が楽しんでやれる役を担当したほうが観客にとってもハッピーだとの本番直前の僕の判断。
そのほか、なぜ今ひとつドラマの一本線が見えにくい配役になってしまったかというと、稽古中の若者たちのモチベーションの波にも寄るところが多い。青春は悩み多きものなのだ。たった1ヶ月だが、彼らはまあよく揺れること。波に乗っているときと海底深く沈んでいるとき、その状況によって配役にむらが生じてしまった。これも今回のチャレンジのウィークポイント。
 
俳優一人が何役も演じる“4人の俳優で四大悲劇を“シリーズなどでは配役や演出コンセプトを練っているときに必ず考える役交替における劇的効果。今回はその不十分さが、先の酒井良一さんの劇評にてご指摘があったように、観客のイメージを分断してしまい落ち着かない気分にさせてしまった原因だと思う。もっともっと強烈に観客の視点に立って考えることを肝に命じたいとあらためて思う。
 
“4人の俳優で四大悲劇を“シリーズでは一人何役もやることはあるが、ひとつの役を複数の俳優で順に演じることはほとんどない。が、先述のペリクリーズ役のように日野や福岡君という複数で役をリレーしていく場合も、どんな劇的なるものをバトンとして渡していくのか、何をつないでいくのか、そのことをしっかり認識して互いに演じる必要がある。「その役をやりたかったので懸命にやりました」では、まったく通用しない。観客には無意味。「俳優にとってやりたい役は何か」という問題は、「観客にとっての劇的なるもの」と必ずしもイコールではない。文字に書くと「人に非ず人を憂う」と表記する「俳優」のミッションとは、何をやりたいかではなく、何ができるかだ。大げさに言えば、全世界の俳優の中で、その役のドラマを観客に最も伝えることができるのは自分であるとの自負があったとき、その役を演じればいい。大げさすぎるが、そんな覚悟をもって舞台に立ちたいものだ。少なくとも心がけたい。そのためにこそ、日々の訓練もあるのだと思う。そして俳優訓練の中で一番大切なエクササイズは、人生のことを絶え間なくとことん考え続けることだと確信している。