劇的な「観客の衝動」&受けを学ぶための“突っ込み演技”の訓練。

今後の公演に向けて、二つの課題が見えてきた。
 
ひとつは、前日の記事http://d.hatena.ne.jp/ayanogi/20100424より、酒井さんからのご指摘に関して。

ただこの変幻ぶりが激しすぎるあまり、主人公に対する観客のイメージが分裂してしまう恐れもある。いき過ぎるとペリクリーズが消えて役者のみが残る。演劇の最後の核は役者につきるとの議論もあるが、これではもう一つの核である観客がなんとも落ち着かない気分になってしまう。今回の舞台ではその整理がまだついていないように感じられてならなかった。

“ニューフィクション”メソッドの核は、「いま」この瞬間に俳優の心に湧きあがる衝動である、と折に触れてよく書いているし発言もしている。その俳優の衝動こそが、フィクションである(ウソだらけの)舞台の中での唯一の真実であり、それこそが感動へとつながっていくとも。(4月21日付http://d.hatena.ne.jp/ayanogi/20100421
が、酒井さんのご指摘のように、もうひとつの核「観客の衝動」をこのメソッドではどのように捉えていけばいいのか、俳優の衝動=観客の感動、という単純なことでいいのかいけないのか。考え方はそれでよしとしてもでは具体的な方法論は? より深い日々の考察と実験・訓練の必要を強く感じている。
 
二つ目の課題。今後の俳優訓練について。若手の弱点強化。
とにかく「受けること」が苦手だ。これは残念ながら、現代の若者の好ましくない特質のひとつかもしれない(ということは大人の責任か)。萩本欽一さんも何かで「受けることができなければ芸ではない。」と言われていた。今の若者たちは、強烈な突っ込みはできたとしても、それに見合う受けができない。突っ込みを無視して次に進む類のナンセンスなボケはできたりするが(ま、それはそれで面白い時もある)、真っ向から受けて返す刀で切り込む、といった丁々発止のやり取りはかなり苦手。日常でも、稽古場でみている限りはほとんどやらない。つまり、突っ込むがそれで終わり、やりっぱなしなのだ。極端に言えば、独り言に近くなってきている。あるいは、最初から独り言かのような体裁やトーンで話す。おそらく、返りがない場合に自分が傷つくのを事前に避けるためだろう。
 
演技訓練を始めると、この点をすぐに指摘されることになる。でもって、それでまずつまずく。劇的会話にならないからだ。初心者特有の大声で独り言、新宿の雑踏に時々いる社会不満ぶちまけオジサンか、うるさいだけでしょうもないことを自分でも自覚する。そこで若者は、どうにか受けようとする。受けの演技をしようと必死になる。が、結果はどうかというと、受けているつもりでフリーズしてしまう。受ける=やられっぱなし、という状態になってしまうのだ。やりっぱなしのあとはやられっぱなしかよ。もちろんこれは「受ける」とは言わない。真の「受ける」とは、突っ込み(アクション)を的確に判断し直後に最速のレスポンスでその瞬間での最高の返し(リアクション)をすることだ。突っ込まれて何もしないのは受けているのではない、棒立ちというのだ。棒立ちしてしまうと次の自分のせりふは棒読みになる。当然ですわな。
 
これまで指導者である僕は、「受けろ」「受けろ」とうるさく言ってきた。しかし、成果は上がっていない。この「ペリクリーズ」で痛感した。若手とからんではっきりわかったが、彼らは例外なく恐怖心からかほとんど目が死んでいる。僕を見ていない。この恐怖心は、キャリアのある人間を相手役にすること、そして失敗したらどうしようという不安が起因しているのだろうが、もうすでにその恐怖心を抱えてしまった時点で劇的には敗北している。ドラマにとってもっとも大切な俳優の衝動は、その状態では湧きおこるわけはない。その敗北状態にある本番中の彼らにカンフル剤的に刺激を与えながら(いつもとは芝居を変えたりして)、恐怖盲目地獄というアチャラの世界にトリップしている彼らを何とか現実の舞台上に引き戻そうとしたが、僕の試みはほぼ完敗した。
「受けろ!」と何度叱っても、本人が「受けなくちゃ!」と強く心がけても、いずれにしても効果はないんだな、きっと。くそ〜〜〜。じゃ、どうすればいい。
 
そこで思い付いた。おそらくこれは特効薬ではない。がやってみる価値はある。
それは、どうせ突っ込みしかできないのなら、突っ込むだけ突っ込まさせて、まずそれを僕がどんな暴投であろうとも果敢に必ず受けてみる。どんなに怪我をしても受けてみる。次に、暴投の玉は思いっきり本人にたたき返す。突っ込みが強烈でさらに外れている場合、それをそのままたたき返されたらきっとかなり痛いにちがいない。
 
お、ちょっと見えてきた。僕がどんな暴投でもがむしゃらに受ける姿を目の当たりにして、あるいは、自分の暴投の玉を思いっきりたたき返されたりすれば、自分の独りよがりの突込みがどれほど暴力的なものであるか、そして相手が受けることのできる突っ込みとはどういった種類のものか、そんなことが実感として自分でわかってくるかもしれない。そうすれば、つまり相手に受けてもらえるアクションが少しでもできるようになれば、突込みをどう受ければいいかというリアクションことも逆につかめてくるようになるのではないか。
 
よし、早速今朝の“あやのぎ塾”のレッスンからそれを実践してみよう。劇的な「観客の衝動」についての考察を同時進行しながら。
いってきま〜す!