酒井良一さんの劇評。

長年ASCのお芝居をご覧いただいている酒井良一様が“シェイクスピアの森通信”というメールマガジンに劇評を寄稿してくださった。もちろん「ペリクリーズ」のです。ご本人と、やはりいつも観劇いただいている“シェイクスピアの森通信”の関場理一様にご了承いただき、以下僕のブログに転載させていただいた。ありがとうございました。あわせて僕からの返信をそのあとに付記します。どうかご一読を。
 
酒井良一さんは、シェイクスピア作品を言語で読む“シェイクスピアの森”という会のメンバーで、『人生、ときどきシェイクスピア』(亜璃西社)というご本の著者でもあり、ご自身のブログでもシェイクスピアについての記事や劇評などを多く発信していらっしゃいます。
   

《私の観劇記 》
●変幻自在〜ASC公演、Tシャツの「ぺリクリーズ」 酒井良一

 
アカデミック・シェイクスピア・カンパニー(ASC)の「ペリクリーズ」公演を観た。T−シャツ姿の若い役者たちがつくる舞台は大胆で型破り、観客の想像力を挑発、鋭く刺激するものがあった。かつて「ジーパンのシェイクスピア劇」が話題となったことがあったが、「T-シャツのシェイクスピア劇」も劣らず意欲的にみえる。ASCの目指す方向がこの舞台によってかなり明確に打ち出されたという意味で大変興味深かった。
 
舞台は新築の建造物らしい明るい黄土色の広い壁と同系色のフロアで構成される。その同じ平面に観客用として30席ほどのパイプ椅子が並べられた。冒頭、T−シャツ姿の若者たちが6人、気ままな格好で談笑している。時折りフロアをウロついたり、柔軟体操の格好をつけたり、とりとめもない雰囲気である。芝居がどの時点で始まるのかなと思っていたら、一人が呻くような声をあげるとこれに呼応してこのバラバラだった集団が入れ替わり立ちかわり詩人ガワーとなって物語のいきさつを説明し始めた。あとは一瀉千里、アンタイオカス王とその娘の近親相姦の秘密が暴露され、それを見破ったペリクリーズが命を狙われ、逃亡していくまでが目まぐるしいほどのスピードで展開される。
 
この間にペリクリーズ役は女性(日野聡子)も含めて次々変わり、芝居の前半だけで5人までがそれぞれのペリクリーズを演じてみせた。ASCではいぜんから観客の要望に応じて演目、配役を決めるシステムつくりを目標として掲げている。これがすべての役者が演目中のすべての登場人物の役をこなしていくことを意味するとすればペリクリーズの変幻ぶりはまさにこの実験に沿ったものと受け止められるだろう。
 
ただこの変幻ぶりが激しすぎるあまり、主人公に対する観客のイメージが分裂してしまう恐れもある。いき過ぎるとペリクリーズが消えて役者のみが残る。演劇の最後の核は役者につきるとの議論もあるが、これではもう一つの核である観客がなんとも落ち着かない気分になってしまう。今回の舞台ではその整理がまだついていないように感じられてならなかった。
 
舞台は後半にはいってペリクリーズが亡くしたと思っていた娘のマリーナに遭遇、さらに水葬したはずの妻セイザが実は生存していたことを知るに及んで傷んだ心を癒され、再生への糸口をつかむ。この過程で舞台は前半の混沌から脱け出し、ようやく統一したイメージを回復して恩寵の雰囲気に包まれることになる。まるで散乱したジグソーパズルの各片が集められ、美しい絵画が甦るようにー。
 
この癒しの場面で気になったのはペリクリーズ役・彩乃木のメーク。「髪もひげも伸ばし放題」という役づくりを意識しているのかもしれないとは思ったものの、T−シャツ軍団の新鮮さにそぐわぬ汚れのみ目立ったのは惜しまれる。
 
芝居の主筋に沿って展開される若い役者たちの素早い動きのなかにはいろいろな工夫が潜められ、ときにはコミカルな味わいもあってそれなりに楽しむことができた。たとえば空手で笛を吹く、腕で波の形をつくる、網を引く、そして台詞を盛り上げるために数人が拍子木で床を打ち鳴らす等々。
また目立たない動きのなかで「きれいはきたない きたないはきれい」「あとは沈黙」など人口に膾炙したシェイクスピア劇の台詞が口ずさまれ、細部にまで神経が行き届いていることをうかがわせた。
(4月8日、ミューザ川崎シンフォニーホールで観劇)

  
【僕からの返信】

酒井良一 様
お世話になっております。アカデミック・シェイクスピア・カンパニー(ASC)の彩乃木崇之です。過日はお忙しい中ご観劇くださいまして、誠にありがとうございました。「シェイクスピアの森通信」での「ペリクリーズ」劇評、拝読いたしました。ご寄稿、光栄に存じます。重ねてありがとうございました。鋭いご指摘にドキッといたしました。
 
「ただこの変幻ぶりが激しすぎるあまり、主人公に対する観客のイメージが分裂してしまう恐れもある。いき過ぎるとペリクリーズが消えて役者のみが残る。演劇の最後の核は役者につきるとの議論もあるが、これではもう一つの核である観客がなんとも落ち着かない気分になってしまう。今回の舞台ではその整理がまだついていないように感じられてならなかった。」
 
まったくご指摘のとおりです。「俳優が交替するために長い試練と感じられなく、主人公に感情移入しにくかった」とのご感想も常連のお客様よりいただきました。大きな課題だと感じております。俳優が何役も演じることは、ある程度の訓練をつめば可能であるとの手ごたえは、“ONLY ONE シェイクスピア 37”のころより感じておりました。そして、ここ2〜3年で構築・実践しております“ニューフィクション”メソッドでは、もうこのことは当たり前のようにとらえるようになりました。
がそのことが、観客にとってどれくらいのドラマを生み出すものなのか。まさにそこの検証が足りない、と今回痛感しております。創る側の独りよがりになっていたのではあるまいか。大きな課題ですが、それゆえにまた意欲が湧いてきました。心より感謝いたします。
 
また、若手中心の至らなさも多々あったことと存じますが、温かい目でのご批評をいただき、ご厚意に重ねて感謝いたします。出口先生のシェイクスピア・シアターと並べて評していただき光栄です。
 
私自身へのご批評の中でメークがよくなかったとございました。実は私、今回ノーメークでやっておりました。なので、なぜそのように見えてしまったのか。照明の加減なのか、はたまた若さの鮮度の中では私の老化の部分が目立ってしまったのか、正直ショックでした。が、忌憚ないご意見をいただきましたこと嬉しく存じます。あらためて自分自身を客観的にとらえる機会をいただきました。私個人の課題として、いかに鮮度を保つか、肉体訓練も含め、精神修行の部分でももう一度洗い直してみたいと存じます。
 
「ASCの目指す方向がこの舞台によってかなり明確に打ち出されたという意味で大変興味深かった。」
 
新たな門出、新たな方向性、新たなモチベーション。そのことをご理解いただけたことが何より嬉しく存じます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
寒暖の差が本当に激しい今日この頃です。
お身体、くれぐれもご自愛なさってください。
 
2010年4月21日
アカデミック・シェイクスピア・カンパニー(ASC)代表
彩乃木崇之