ウソが生む真実。

昨日の続き。思考は続く。
俳優の衝動が舞台上の唯一の真実、とするならば、ではその真実はどのようにして生まれるのか、あるいは生み出すことができるのか。これが不思議なことに、真実はウソから生まれるという事実がある。
 
ドラマは、フィクションだ。そのことは前回でも書いた。瞬間の俳優の衝動以外は、すべてはフィクション、すべてウソ。そのウソの中に「約束事」がある、そこがお芝居の面白いところ。簡単に言うと、「段取り」である。段取りとは、たとえば立ち回り(殺陣)などではわかりやすい。こう斬りかかるからこう受けて、でその次にこう殴りつけるからそこで避けて、などなど動きがあらかじめ決まっている。で、段取りを確認している段階ではもちろんドラマチックな衝動などは生まれない。ところが、本番でその段取り通りにきちんとやったりすると、正義の味方ならそのヒーローの、悪の権化ならその悪者の、その役の衝動が俳優の心の中で俄然湧き出すのだから面白い。なぜ? あらかじめ決まっていることをやってるだけなのにどうして新鮮な感情があふれ出すのか。
 
ひとつには、そして最大の理由は、信頼感だ。
あらかじめ決まっているということが、相手を全く信じるという絶大な信頼感につながっている。スタントに近い殺陣ならなおのこと、相手を信じなければ自分が大怪我をする。その強靭な信頼関係があって初めて創造的な境地に至ることができる。信じるという行為のスーパーパワーだと僕は思う。
 
真実(=衝動)を生む方法とは。
フィクション(ウソ)の「約束事」を信じる。
※ウソを信じる? これ自体がオクシモロン(=矛盾形容法)だ
 
衝動とは、ウソが生む真実なのだ。
では段取りがあまりない場合、たとえば「即興」などの場合はどうなんだ? 要は同じこと。段取りはなくても、とにかく全人的に信じていればことはすむ。信じることがパワーを生む。
 
ただしここでひとつ要注意。フィクションの「約束事」を知っておく必要がある。「ウソの約束事」っていったいなんだ? それは、「受けて仕掛ける」というルールを必ず守ることだ。やりっぱなし厳禁。たとえば、こんな演技の場合。敵対する相手役に腕をつかまれたとする。日常的なリアクションではすぐに振りほどこうとするかもしれないが、それでは月並み普通すぎてドラマを生まない。腕をつかまれたことから、さらに劇的展開にしていくためにはどうする、というような思考が大切。さらにこれこそが重要なのだが、その自分の思考と同時に、相手役が何を考えているか、彼は腕をつかんでからどのようにドラマを展開させようとプランニングしているか、その相手役の演技プランを全部受け取るまで彼のアイデアを拒絶しない心構えが必要なのだ。それが「受ける」ということだ。ドラマを受ける。
 
腕をつかまれたら逃げる、だけでは自分勝手すぎる。普通の反応だけでは信頼につながらない。普通なら逃げるところを逃げないでみたりするのだ。これこそウソ、フィクションだ。このウソは、つまりは相手の行為をすべて受けるということにつながる。うまい相手なら、自分のしたいこと(=プラン)の完了を必ず伝えてくれるものだ。つまり、「仕掛けたかったことは(アクションは)ここまで」「あとはお前がどう受けるか任せるぞ」「お前のその受け(リアクション)をお前からのアクション(仕掛け)として、今度は俺が全部受けてやる」、というような無言の会話をうまい俳優同士はいつも行っている。この阿吽の呼吸が、絶大な信頼感につながっている。よって怪我はしない。安全なのだ。安全だからこそ、しっかりと深い大きな呼吸ができる。呼吸が豊かだと、身体全体の細胞に酸素が行き渡る。生命が活性化する。創造的なモチベーションとなる。
 
その状態で作品中の劇的人物の行動を真似ている。そう、俳優は真似ているだけなのだ。当たり前だ。役になりきってしまったら、たとえばマクベスハムレットの場合、俳優自身も死んでしまうではないか。そな、あほな。真似ていること自体も、明らかに「ウソ」だ。そんなこんなで真似ていると、あら不思議、心の中に明らかにその瞬間初めて生まれたドラマを担う衝動があふれんばかりに湧き上がってくる。その厳然たる唯一の真実が、観客の心を動かす。俳優も観客も、感動を共有する。
 
とりとめもなくなってきた。すみませぬ。
要は、ウソの連続がなぜか真実(衝動)を生んでいるという摩訶不思議な舞台の事実。そこを知っていて演じているかどうかで表現が大きく異なってくるということ。日常的なリアクションだけでは劇的ではない。リアリズム演劇を間違って捉えてしまっている演技方法、日常的営みだけがすべてなどと勘違いしているクソリアリズム志向では絶対に到達できない領域だ。
 
このこと、シェイクスピア作品が強烈に僕に教えてくれた。シェイクスピア作品は、乱暴な言い方を許してもらえるなら、すべてが「語り」だ。「語り」とは物語、始まった時点からフィクション、ウソ。本来、芝居というものはすべて「語り」が原点だと思う。もっともらしくいかにもそれらしい演技ほど観客を冷めさせるものはない、ともちろん自戒しながら最近とみに思う。
 
ウソはウソ、が、俳優という一個の人間がそこに(舞台上に)立っているという事実はまぎれもない真実。俳優という真実の存在は、そこに、舞台の上に、ウソだらけのフィクションの世界に、居さえすればいいのだ。それでいいのだ。
ウソこそ、ダイナミズムを自由に生み出せるのだ。
 
とまらなくなってきたので、今日はこの辺で強制終了します。