“あたりまえ”のうえの“あたりまえ”。

“あたりまえ”のうえの“あたりまえ”ってあるなぁ。
今年の年頭所感で「あたりまえを教えはぐくむ。」と書いたが、
http://d.hatena.ne.jp/ayanogi/20091231
たとえば、「食べる」「寝る」は人としてのあたりまえだ。やらなくてもいいということはありえない。ただし、「寝食を忘れる」という言葉もある。寝る食うを忘れるくらいあることに熱中して取り組むいうことだが、趣味などに夢中になるときも、救急救命などの医師のように使命感に燃えるときも、同じく寝食は忘れる。
 
“あたりまえ”のうえに、“あたりまえ”はある。
 
個人的なことなのか、大義にたってのものなのか。選択を迫られるときは、日常に思ったよりも多い。どちらの“あたりまえ”を、よしとするのか。その決断を左右するものは、日々の考え方か。どこに目標を設定しいるのかで変わってくるのか。
少なくとも“あたりまえ”を「口実」にするとき、それはもう“あたりまえ”のことではないだろう。
 
ここぞというときに、“あたりまえ”をやりたい。
 
【連想メモ】
・“あたりまえ”を行う「Q」はだれにでもわかる。が、その瞬間はちょっと頑張らなければいけないので、それができずQを逃すことも多々ある。そのときの口実が、「後でちゃんと」だ。だけど実は、絶対にそれができない。なぜか。「ちゃんと」のハードルが、時間経過とともに高くなっていくからだ。そしてまたそのとき思う、「後でちゃんとしよう」。悪いスパイラル。「後でちゃんと」は永遠に不可能。ならば、「今しよう」。今こそ、そのときだ。
大切なことは、「大切なとき」を知ること。そのときには、寝てちゃだめだよな、やっぱり。
 
・無駄な労力を使わず、さらに効果を上げる。経済で言う「費用対効果」。無駄な労力は、最善を尽くすということには直接つながらない。やった気になっているだけでは、最善ではない。効率と成果。僕らにとっての成果は、観客の感動だ。(塾生へのメールより)
 
・何を、どのレベルを自分の目的にするか。理想の形とは、なんだ。
僕は近視だ。最近レーシックを考えたりしてる。が本当は、自分のことばかりつい考えがちな近眼な心、自分の心へのレーシック手術が必要だな。つまりはそれが人生修行か。精進。
 
・原動力のひとつに羞恥心がある。それがないと理想のイメージ実現は不可能。ましてや周囲への影響や迷惑などを考えることすらできなくなる。大言壮語は、羞恥心があれば有言実行となる。夢の実現につながる。