角膜表面剥離から学んだ。

一昨日の夕方2歳の娘が、子供用ではあるがはさみの先で目をこすってしまった。号泣。目が開かない。出血はなかったが夜間救急に行く。角膜の表面が剥離しているとのこと。
「どのくらいの範囲ですか?」
「黒目の3分の一くらいです。」
「そんなに? 直りますか? 後遺症は?」
「1週間くらいで完治します。後遺症はありません。が、気をつけてください」
ほっとしたが、反省。なにやってんだか、俺は。
 
昨年後半から、子どもたちを中心の芝居をずっと考えてきた。そのためには、できるだけ子どもたちの中にいたほうがいいと思った。そういう意味からも、秋の広場での野外稽古や毎朝登校時のスクールガードもやっている。そしてデスクワークも、3人の子どもで賑やかな自宅で極力やっている。
なのになぜ、2歳児から目を離すのだ?!ちょうどPCで作業していた。その作業は、緊急な要件だったのか?そうじゃない、子どもが寝てからやっても間に合う。もしかすると、今日やらなくてもいいことかもしれない。僕がそのときにやりたかっただけなのだ。
子どもを真ん中にすえた芝居づくり、自分の子どもに怪我させるやつが言っていてもチャンチャラおかしくないか。
 
そのときのもっとも大切なことはなんだったんだ?“あたりまえ”とはなんだったんだ?PCでの作業じゃないだろ。子どもがはさみを持っていることにも気がつかなかった。
あのときは子どもと一緒に遊んでいるほうが、「ペリクリーズ」にも怪我回避にも、おそらくすべてにとってよかった。それこそが、“あたりまえ”だ。
前回日記で「“あたりまえ”のうえの“あたりまえ”」などと書いたその日にそれができていない。アホか。
 
「いま」こそすべて。「いま」が、そのとき。「いま」なのだ、大事なのは。「いま」しなくていつする。
もうとにかく「いま」だ。お題目のように自分に言い聞かせなくては、取り返しのつかない大惨事にもなりかねない。事実、娘は失明したかもしれないのだ。ぞっとした。そして、本当によかった。不幸中の幸いだった。大感謝。
 
そして今日、さっき地元の眼科に連れて行く。なんと完治していた。ほんとか!?しつこいくらいに何度も聞いた。大丈夫とのこと。
これほど嬉しさをかみ締めたのも久しぶりだ。春のような日差しが喜びを増してくれた。再び大大感謝。
 
目を丸くして「おしゃれキャット」のDVDを見入っている娘の横顔、これほど幸せを感じたことはおそらく初めてだと思う。人がそばにいて、元気でいてくれること、一見ごく“あたりまえ”のことが、真実人の幸せなのだと感じた。
ありがとう。
そんな「ペリクリーズ」にしたい。 
 
【今日の追記】
・費用対効果。経済だけではない。自分の人生においてもこのことをちゃんと考えることは大切だと思う。労力を惜しむということではないが、言葉を変えれば「労力対幸福感」。目的を忘れるな。がむしゃらに懸命になっているだけではムダ。有限の人生を最大限有効に生かすためには、費用対効果は絶対にはずせない。ムダにがんばれば、それこそむだなCO2を排出する。熱くなるだけでは進歩しない。必要最小限のエネルギーで最大限の効果。そろそろそういうことを考えなくては、年齢的にも。「やっといまか」と笑われそうだ。
よし、決めた。「もしかしたらうまくいくかも」ではなく、「必ずうまくいかせるぞ」と思える対象(目的)に投資をしよう。そうすれば自分の中で対象の厳密な査定がなされ、最終的には効果は上がり達成感も高まる。失敗しても自己責任として処理できる。つまり、言い訳しないですむ。
 
・場所を変えても、自分の中身は変わらない。一番手っ取り早いのは、自分が変わることだ。それこそ費用対効果においての最高値。