“ニューフィクション”の効用 その1

やっとこの話となりました。
で、一度にはたぶんまとめられないと思うので連載で。
(まとまるかどうかも定かではないが)
 
その前に、日々走りこみをやっていて思うことを少々。
 
有酸素運動はいい。
もうダメ、って思ってからの心の持ちようで身体にも心にもいろんなことが起きる。
おもしろい。
 
タイムをまったく見ないで、20分ほどランニングマシーンで走ってみた。
速度は、僕の長距離マックスよりちょい遅め。
マシーンだから、もちろん景色は変わらない。
タイムも見ない。
つまり、なにを目安にして自分を鼓舞すればいいかその材料がない。
ただひとつ、20分後には止まるようにだけ設定した
これ、精神的に結構きつかった。
肉体は、もっときつかった。(速度は遅めなのに)
 
また走りながら思ったが、
結局、精神を鍛えるには肉体をヘロへロ状態までもっていくしかないように思える。
精神だけ取り出して鍛えることはできない。
感性を司る右脳を鍛えるには、徹底的に理性的な左脳を鍛えることにしか方法がないのとにている。(これ、持論)
ま、言葉を変えれば、「人事を尽くして天命を待つ」ってことかな。ちょっと違う?
要は、精神も右脳も、人事を尽くして天命を待つほどの大事も
直接的にそのものにすぐ手を出せないってとこが共通してるところ。
 
そして次に走った後かなりへばったシャワールームで思ったが、
人生の摂理などは本当は子供でも分かるものだ、ということ。
大人が分かったように思っていて子供が分からないのは、単なる「事情」にすぎない。
事情なんか、大人になればイヤと言うほど分かってくる。分かりたくもないのに。
その代わりに、真理を見失う。
どういうこっちゃ?
 
有酸素運動は、心拍数が上がる。
その状態をある程度維持する時間を自分に強いる。
これ、一種の生命維持におけるパニック状態。
そういうとき、普段心を奪われているどうでもいいことが本当にどうでもよくなり、
単純明快な真理が単純明快な言葉で心によみがえってくる。
 
有酸素運動はいい。
 
“ニューフィクション”とマラソン挑戦の共通点は、
原点回帰。
 
“ニューフィクション”の大切な効用のひとつが、それのような気がする。
その作用によって、たぶん僕はマラソンエントリーを決めた。
その僕の影響によって、“あやのぎ塾”の塾生たちもエントリー。
(決して強制ではない!)
 
原点回帰。
といっても過去に戻るわけではない。
“ニューフィクション”メソッドでは、過去をフィクション&ストーリーと考える。
過去は応用できるものだが、過去によって現在や未来が決定されるものではない、とする。
過去を固定し固執するところに問題が生じる。
フィクションであるということは、ストーリーは自分の意志次第。
自分の意志次第で過去は、どんなふうにも変えることができる。
それにより、「今」の意味が深く鮮明となる。
 
われわれ人間の原点は、
過去に縛られるのではなく、「今」を考え、
今のこの先に、つまり次の瞬間の未来に、
どんな新しい関係を構築していけるか、それを連続させ持続できるか、
そこにこそ人生の意味がある。
 
“ニューフィクション”は、演技術だ。
演技が、人生を表現するものであるのは言うまでもない。
演技術も、人間の原点をいま一度改めて見つめなおす必要がある。