いまさら裸、されど裸。

「恭しき娼婦」でのリッジーの全裸。
全裸になる意味はあったのか?
と、よく言われる、今でも。
 
確かに戯曲にはそんな指定はない。
僕の純然たる演出プラン。 
だからこそ、そう問われるんだろうな。
 
無理に裸になる意味はなかったんじゃない?
という人はたぶん、
女の裸を特別なものととらえてるような気がする。
 
で、こちら側の論理で言うと、
女の裸も、表現手段のひとつでしかない。
 
もし結果的に全裸のヒロインを登場させたことが失敗だったとすれば、
裸に対するその認識の違いが原因のひとつ。
裸は特別か、それとも表現の選択肢の一つか。
 
もっと言えば、
特別だと思う人がいるだろうと予測したので、
だからこそ特別じゃないですよというアプローチをしたいがために、
僕が演技の上での具体的な動きを制約した。
つまりは、表現上ある種の操作をした。
もちろんその操作は、全裸になる女優本人も了解してくれたことだが、
その操作が、逆に特別視をあおる結果となってしまったようだ。
 
uuu〜〜〜nn、うまく言えない。
裸は特別じゃないですよ、と言いたいがために特別にしてしまった。
そんな失敗。
 
全裸は、決して特別じゃないとおもっている僕の感覚は変なのかな。
寺山修司さんはじめ現代演劇の第一世代の人たちの感覚は、いまやアンチ?
あ、もちろんそんなところまで深くは表現できていないかもですけど。
 
女の裸にドラマを持たせることができなかった。
単に、それだけの失敗かもなぁ?!
 
はだか、はだかって、
別にそれを第一声で言うこともないんじゃないかな、というのが正直な感想。
なぜ裸にしたの?
ってまず言う人は、必ずしも
裸にしなかったらよかった、って言いたいわけでもないでしょ?
って、思っちゃうんですが。
そして僕は、裸どうこうよりも
もっと突っ込んだ感想が聞きたいんですが。
 
uuuuuu======nn
女の裸は、やっぱり大問題なんだなぁ。