メソッドってなんだ?

 
 
演技術って、
余計なものをはぎ取る作業、
あるいは、
余計なものがくっつかないようにする作業。 
 
余計なものが貼っついたりくっついたりする本体は、
摂理、真理、本質、原理、原則などか。
 
方法論を伝えるとき、伝える端から理屈っぽくなる。小難しくなる。
単純なことを伝えたいだけなのに、どんどんどんどん言葉数が増える。
ジレンマ。
 
“ニューフィクション”メソッドの根幹は、「ベタ」。
人としてあたりまえのことをベタにやってみる。
言葉を変えれば、強烈な動機と極端な状況の融合。
そのためのレスポンスとスピード。
ほら、また小難しくなってくる。
 
日野の発想が変わってきた。
余計なものがなくなってきた。
はぎ取られてきたのか、くっつかなくなってきたのか。
こだわりがなくなった。
何かにこだわると、すぐに演技は説明的になる。
こだわった瞬間から過去になる。死ぬ。
こだわると、結局あいまいになっていく、つまらない類の「普通」になる。
鋭く、精緻で、劇的なものは、常に動いている。それ自体には、こだわりは存在しない。
こだわることは、瞬時の方法論に過ぎない。
方法論は、いつも変化し続けているものでなければならない。
ということは、「方法」という言葉すらおかしいように感じてくる。
 
方程式。
方程式も不変で動かない感じ。
が、方程式は厳然とある、気がする。
方程式とは、もっともシンプルに「あたりまえ」に到達する順番を表したもの。
小難しくなるものをできるだけ単純にした本質への道筋。
 
技術。
技術の習得が目指す最も素晴らしいことは、
たくさんの「あたりまえ」がリンクしていくことだと思う。
「一芸に秀でる」というが、一芸はすべてに通じる。
ひとつひとつの「あたりまえ」が自分なりの方程式によってどんどんリンクしていくと、
自分の人生が見えてくるように思える。
自分の人生から他者の人生も見えてくる。
そうなってくると、本当に面白い、に違いない。
 
思いが正しく強烈で、
状況が正しく極端ならば、
その人物の行動は、群を抜いて説得力を増す。
強靭な「あたりまえ」だ。
 
なんか面白い。とよく思う。
その「なんか」がとても重要な気持ちだと思う。
「なんか」があればいい。
そこからすべての創造が始まる。
「なんか」を単純に、強烈に、極端に、強靭にしてみる。
劇的とは、そういうことだと思う。
そして変化させる、絶対に止まらない、畏れを知り、あきらめない。
そこから、優しさも生まれてくるように思う。
 
厳しい分だけ愛が必要だ。
逆か、
愛がなければ厳しくできない、自分にも人にも子どもたちにも。
演劇も教育も同じだ。
 
やりきる。
まずは己にこのことを課そう。
 
産みの苦しみ。
稽古場で日々格闘・苦闘している藤田さんと日野に
最大級のエールを。
二人の勇気に、乾杯。
ある日、熱烈な「なんか」が一気に生まれる予感。