教育の徒然。


  
朝のキッズガードは、
いまや僕にとっての修行の一つ。
禊でもある。
たかだか1時間足らずの間に、稽古以上の発見がある。
具体的な事柄は省くが、今週はこんなこと考えた。
いまさらと思われるかもしれませんが。
演劇教育の徒然。
 
【その1】「相手の得が自分の得」
あたりまえの中でも至極あたりまえのことだが、あらためて大いに実感。
相手にとって、相手の最善を考え自分が行動したとき初めて、伝わる。
伝わりにくいなと感じたときこそ、要注意だ。
そのとき犯しやすいミスは、とたんに「自分のほうが正しいのだ」と、
自分の正当性を押し付けようとしてしまう。
目的が自己主張へと瞬時にすり替わる。
つまり、ごり押し。
が、相手の気持ちよさを考えると、言葉が変わってくる。
意外な言葉になってくる。
また、自分のことで何かに心を奪われているとき、
事実を目の当たりにしているのに判断できない状態となる。
人は見たいものしか見ない。
自分の得を優先するのが脳の自動プログラムだとしたら、
それは勝手に作動しているので(本能)、意識の照準は相手の得に合わせる(理性)。
 
【その2】「自分に厳しく、人に優しく」⇒「自分は早く、人にはゆっくり」
その1を実行するための大切な心構えか。
自分にできることはできるだけレスポンスよく、早く、速く、実行するのがいい。
反対に人にやってもらうことは、ゆっくり、と。
自分をはやくすれば、相手に十分な時間を渡すことができる。
行動が、柔らかくなっていく。
柔らかさは、優しさだ。
 
【その3】「大人の背中を見せる」
結局教育は、これに尽きるように思う。
そしてこれが、なかなか、かなり難しい。
 
【その4】「並列思考」
これは戯曲分析のとき僕がよく使う手法(勝手にそう呼んでいる)だが、
ようは、演繹法的な思考。
どんどん仮説を立てる。その仮説に基づきどんどん横に可能性(次の仮説)を並べていく。
このとき注意するのは、あり得るあり得ない・良し悪しの判断をさしはさまないこと。
考えうるすべての仮説を立てて、平等に検証する。
すると、ドラマに発展する仮説は、次々と新たな仮説を生み、思考の表がどんどん横に伸びる。
反対につまらない仮説は、すぐに行き止まりになる。
では話を戻し、最近感じたこと。
戯曲では、仮説を立てるとき具体的表現が難しいものを選んでいくと、ドラマは面白くなっていく。
が、実人生では、自然につまらない仮説を立てがちで、それで自分の可能性にリミットを設けることが多い。
「きっとできない」「むりむり」
できないことを前提に次の仮説を立ててもできるわけがない。
にもかかわらず、その仮説の上で頑張っていて成果を出せない人が、そんな場合が、とても多い気がする。
 
今日のところは以上。 
 
追記
とても残念な訃報です。
新聞でも報道されたが、声の仕事の事務所オフィスPACの代表、野沢那智さんが10/30亡くなった。
72歳。早すぎる。
これだけ身近でお世話になった方の訃報に、昨日一日そして今も虚脱感から抜け出せない。
誤解を恐れず正直に言うと、なんだか裏切られた感覚と似ている。早いよ。
明日、お別れの会に行く。
心からご冥福をお祈り申し上げます。
ありがとうございました。
お疲れ様でした。