Q。

Q,つまりタイミング。絶妙のタイミング、これはなかなか難しい。
芝居の場合は、Qのオンパレードだ。たとえば照明や音響のオペレーターは、照りを変えるQをまたは音楽がインするQを、生死にかかわるかのごとく集中して捉える。少しでも外れると、劇的効果が薄れるどころか、観客は引く、幻滅する。それこそ命がけなのだ。俳優もしかり、楽しそうにやっているように見せかけて、「ここ命がけ!」というQをいくつもクリアーしていくことによって観客を感動に導こうと文字通り必死なのである。
 
では絶妙のタイミング、0コンマ何秒というオリンピック世界記録にも等しいQの瞬間を捉える技術とは何か、考えてみた。が考えても結論は一つだ、と気が付いた。もう「自分がここだ!」と思った瞬間としか言いようがない。うん、そのとおり。間違いない。若いときも結構演劇人生が長くなった今も、そう思う。
にもかかわらず、若いときはよくQを外して先輩に怒られた。お客さんには下手なのがばれた。自分でもいやになった。キャリアを積むにつれそういうことが少しずつなくなり、反対に「よし、オッケー!」と思える捉え方をかなりできるようにもなった。何が違うのだ?! Qであると判断するその瞬間は、昔も今も「ここだ!」と自分が判断したときなのに。
 
基準にしてる尺度が違うのだ、と分析。
劇的効果を生み出すQを捉えたときは、おそらく関係性を大事にしているとき。観客、相手役、いずれにしても人との関係性を判断基準にしているとき。人を喜ばす、あるいはいい意味でびっくりさせてみよう、なんていうイタズラ心があるとき、または他者へのプレゼン、創意工夫を判断基準にしているときのような気がする。たとえば、誕生日のプレゼントを選んだり、それをラッピングしたり、渡すタイミングを計画したり、とそんなときだ。サプライズな贈り物。
逆にQを外すときは、自分の個人的な事情を判断基準にしているとき。プレゼントで言えば、相手がほしいものより自分があげたいもの、自分が満足したいがためにだけ予約した高級レストラン、とかね。芝居の場合、台詞を間違えたりなどパニックに陥ったときなど、早く自分の芝居を終わらせたくなる。なかったことにしたくなる。つまり自分の事情だけに単純に従ってしまいたくなったとき、Qを外す。そんなときでもなんとなくは捉えることができるが、それは大雑把で勝手なタイミングであり、決して絶妙ではない。
 
自分の事情か人とのよりよい関係性づくりの創意か、絶妙Qの捉え方は、そのまま人生に通じる。ま、人生に通じなきゃ演劇ではないからね。だけど、やっぱり絶妙Qは難しい。油断大敵。それに実人生では、もっと難しい。実人生ではいまだにQを外しまくっている。成長しろよ、オレ。