リスクと新しい関係、意志と勇気。

新しい関係を構築しようとするとき、必ずリスクを伴う。新しい関係を取り結ぼうとする相手(他者)から否定されるのではないかという恐怖だ。人に否定される、これは誰でも一番イヤだ。だから予想範囲内での安全策を講じようとしてしまう。が、安全策は新しい関係とは程遠いもの、過去の遺物。月並みなもの。新しくない。
 
否定されたくない。これはとくに俳優たるものいつも強く感じる。というのは、当たり前だが観客に否定されては仕事が成り立たない。が、新しいことにも挑戦したい。これも心ある俳優ならいつも心がけている。心がけていても無意識に安全策をとってしまうことが多々ある。保身は無意識、勇気は意志が必要だからだ。
 
観客の人生のある瞬間に、その心に、強烈な刻印を残す。それが「感動」だ。観客にとって、「感動」とはたぶん不意打ち的に襲ってくるものなのではないか。「感動」とは、おそらくショック(衝撃)だ。だから、感情移入的なカタルシス(精神浄化)とは少し違う。それは共鳴といえるもの。まだ観客の予想範囲内だ。
共鳴を越えた突然の衝撃、おそらく一生忘れることのできないものになる。ぼくらが目指す「感動」をそんなふうに定義しておきたい。
 
がしかし、突然のショックだからといって、小劇場運動第一世代の寺山修司さん・唐十郎さんのようなけんか腰のやり方(怒られるかな)は、今はできない。だから共鳴はとても大切になる。ソフトさ、とでもいうかな。共鳴のなかに、仲間意識のなかに、突然に襲ってくるショック。これはある種の裏切りかもしれない。でも観客はいつも多かれ少なかれ意外性を求めている。日常から離れたくて劇場に足を運ぶ。「心地よい裏切りと魂への衝撃」。「感動」ってそういうものだ。
 
観客の心の中にまで踏み込む。俳優の仕事の醍醐味。ただし、完全に拒絶されるという大きなリスクを伴う。それは俳優にとって「殺される」こととほとんど同義語だ。抹殺される。
それは怖いので、観客の予想範囲内で観客が望むであろうことを提示することもできる。が、その手の仕事は「すごいね。」と感心はされても「ことばがでない」という感動にはおよばない。
 
観客の魂の中まで踏み込もうとしたとき、つまり感動を目指し、観客と新しい関係の構築を試みたとき、必ず「やめようよ〜」とラーンスロット的悪魔のささやきが聞こえる。他者と新しい関係を構築するとき必ずその直前では、自分自身の魂と新しい関係を取り結ぶ必要がある。そのとき悪魔のささやきが聞こえる。過去の保守的な頭の固い自分(悪魔)が、新しい関係に果敢に挑む新しい自分(良心)をひきとめる。「やりたくないなぁ」とつい思ってしまうその気持ち。それは正直だが、よくはない感情だ。そして、ラーンスロットの場合と同じくたいがい悪魔の方が強い。悪魔の方が理屈を持っている。なぜか、過去の事実(リスク)を引き合いに出し、新しい関係を避けることを正当化するからだ。逆に良心には、説得力あるデータはまだない。良心にあるのは、意志だけだ。良心には、大きな勇気が必要なんだ。そして絶対にいえることは、「新しくやらなければ、決してよりよくはならない」ということだ。 
 
抹殺される恐怖を越える勇気、それは強靭な意志の力だけだ。他者の魂に生涯忘れることのできない衝撃を残す。他者の人生そのものを動かす俳優の仕事。演劇とは、保身を捨て勇気をもって挑むに値する偉大な芸術だ。