合宿感想メールその10 日野聡子より 〜“あやのぎ塾”塾生〜

前回の【合宿感想メールその9】に続く日野とのやり取り。
“ニューフィクション”の効用について、
日野がなかなかいいことを言ってくれてる。
ご一読を。
 
 
日野聡子からの返信 同日22:50】
 
こんばんは。
返信が遅くなってすみません。
「はは、昔のアニメはまあ時間のあるときにみてみて。」(メール4のこと)
から始まるメールについて、そう思ったのでした。
 
はい、文章というのはオタッキー(独りよがり)になりますね。
それに私の場合は、彩乃木さんに対してだから、
失礼のないように、とか、でもニュアンスは伝えるためにここはくずして、とか、
くずし具合に気を配ります。
まあ、それは必要なことですよね。
 
「君は教えられるのが基本的に好き」
というのは、そうだと思います。
知らないことは知りたいし、楽しいです。
「引っ張っていってもらうのが好き」
というのは、わからないです。
そうとも言えるし、そうとも言えない気がします。
 
携帯にくださったメール(すぐ前のヤツ)は、変じゃないです。
意識していないと、私も思いました。
 
文章って本当に難しいです。
どんなに正直に言おうとしたって、
言葉にした時点で違うのに、
それを更に、活字にすると、めちゃくちゃになります。
読み手の状態によって、何通りもの読み方になってしまうから。
自分の文章すら、
時間が経って読み返すと、違うものになっています。
臨場感も変化する。
 
文章にする時、諦めが必要なのかもしれません。
だから、俳句や詩は、それを逆手にとって、
読者のイメージに委ねている。
どんな風に読んでもいいですよ、と。
 
無次元から文章の次元に変換する作業もまた、
演劇行為かもしれないですが、
無次元から二次元という、数が減る場合は、
妥協と力技が必要になってくる。
しかしまた、その作業の中で新たに見えてくるものもある。
明確になるものもある。
ほぅ。
やはり、どっちからどっちに行っても、
この演劇行為(“ニューフィクション”のこと)は、何かを生み出せるのかもしれません。
 
 
【僕からの返信 2008.8.24 11:32】
 
「はは、昔のアニメはまあ時間のあるときにみてみて。」(メール4のこと)
なるほど、うん、あのメールはブログ用っぽいよね。
やっぱり僕が思考にはいっているときだね、君に伝わりにくくなるのは。
一緒にいるときは、同時進行思考がよくても、
メールだと置いてけぼりのような印象を与えちゃうってことかな。
その違いも面白いね。
 
あのメール、僕の思考ってこととは別に、
「指導者は、未来に確信がないと、仮にいくら同時進行してもみんなに信用されないよ」
ってことを君に伝えたい思いも、打ってるとき意識していた。
ただの同時進行だと、ほらあの前にいった有名な演出家みたいになっちゃう。
(ここで実際にはその演出家の実名を挙げているが、
 そしてここでも実名を挙げてもいいんだけど、
 誤解を招かないように説明するには紙面?が足りない。なので、あえて伏せる)
講師の君は未来への確信をもってない、っていってるんじゃなくて、
同じ指導者としてともに気を付けようという意味だよ。

でも、理屈っぽくなるのは僕の悪い癖だなぁ。
田中さん(作家:田中浩司)にも
「固い」「古い」「ダサイ!」って言われたしなぁ(笑)
(以前僕の文章を田中さんはそう評価してくれた。感謝。)
忠言、本当に感謝してる。
ありがとう!
 

「引っ張っていってもらうのが好き」
というのは、わからないです。
そうとも言えるし、そうとも言えない気がします

 
その両方もってるが君のいいところ!
僕の表現が悪かったね。
君は同時進行で両方持ってる。相手が変わっても。
 
人によっては、両方あるけど相手によって100%モードチェンジをしちゃう。
完全に仮面を付け替えちゃうよね。
そうすると、ある程度長い付き合いをすると、
逆に信用が減ってしまう結果になるかもなぁ、と思うよ。
 
長女の君は、長男の僕と同じで、思ってることがすぐ顔に出るよね(笑)
それで、いやそれがいいんじゃないかと思うよ、僕は。
 

文章って本当に難しいです。
活字にすると、
めちゃくちゃになります。
何通りもの読み方になってしまうから。
自分の文章すら、
違うものになっています。
臨場感も変化する。

 
同感、同感、まったく同感。
 

文章にする時、諦めが必要なのかもしれません。
だから、
読者のイメージに委ねている。

 
それを「諦め」ととるか、「根気!&根性!&熱意!」ととるか。
実現するのは不可能じゃない? ってなことに向かって、
不可能を知りつつ(これが「諦め」かな)、限りなく可能にするために情熱を傾ける。
ってなことが、アーティストの資質なのかな。
そのもっとも有効打が、「他者のイメージにゆだねる」ってことかもね。
 

妥協と力技が必要になってくる。
しかしまた、その作業の中で新たに見えてくるものもある。
明確になるものもある。
ほぅ。
やはり、どっちからどっちに行っても、
この演劇行為は、何かを生み出せるのかもしれません。

 
「妥協」という言葉は、ちょっと違わない?
君自身もその言葉にちょっと抵抗感じてない?
「力技」ってのは、面白いね。
熱演とは違う意味だよね。
「ネバーギブアップ技」ってことだよね。
“ニューフィクション”の可能性を的確に捉えてるジャン!
 
それにしても、
ブログ用文章になりかけそうなのをコントロールするって、ムズカシイなぁ(汗)