冗談にしてはいけないもの。

冗談にしていけないものをジョークとしてしまう。
僕には、そんな癖がある。
 
この原因は、たぶん僕の生来の自虐性にある(と思う)。
ただし、誤解なきように自己弁護するが、
悪ふざけをしているつもりは毛頭ないのである。
真剣に、ジョークにしている。
 
社会の慣習や思想、規範、流行など、大多数がよしとするものに対して、
その世間のなかの個はあまりにも無自覚に
それに従っている気がしてならない。
 
世間のほうが、通常結構な頻度で、
人として冗談にしてはいけないことを
何気なく無視しているように思えてならない。
昨日のブログにも書いたが、
中国やミャンマーの国際援助に対する態度しかり。
(両国の政治的事情を一緒くたにしてはいけないが、
 その事情のために、助かったかもしれない人命が失われている、
 という見方を説得力を持って論破できる人がいるかしら?)
人の命や尊厳がかかわっているときに事情などナンセンス、
と即感じてしまうのが人の正直な気持ちのはずでは。
 
反面、人は大多数あるいは大きな権力に従う傾向にある。
「だって他の多くの人や偉い人が言っているんだもの」ってな言い訳を
自己正当化の理由にして。
つまりは、「私は悪くない」ってことを生理反射的に主張する。
 
そんなとき、自分もそうなってしまっていることを自覚するとき、
僕はとてつもないジレンマを感じる。
そのジレンマが蓄積すると、悪い癖がでる。
自分が自分なりに懸命につくった作品を、笑い飛ばしたくなる。
その作品は、絶対にジョークにしてはいけない人命や尊厳が
テーマであったとしても。
 
笑い飛ばして、そのあと思いっきり猛省したい。
 
そんな自分の願望を観客にも強いてしまうとき、
観客に不快感を抱かせてしまうこともあるという自覚も、実はある。
でも、やめられない。
 
やめられない理由のひとつは、実はシェイクスピアのせいだ。
(ここで僕もやっぱり人のせいにするのだ、偉い人のせい)
シェイクスピア作品の幕切れ、悲劇も喜劇も歴史劇も
どれも肩透かしに終わる。カタルシスがない。
ハムレットなんて、やつのせいで多くの人が死んだにもかかわらず、
「あとは、沈黙。」なんて言ってのけて、気持ちよさそうに死ぬ。
 
シェイクスピアに代表されるイギリス文化、
一言で言うなら、「な〜んちゃって」文化だ。
感情移入して観ちゃうと、最後にバカにされたような感じになる。
たとえば、そのさいたるものがモンティ・パイソン
彼らはキリストさえも笑い飛ばす。
それを面白がる英国人。僕も大好き。
 
シェイクスピアのように、モンパイのように、
いまだその足元にも及ばないが、いつか上手に
「な〜んちゃって」をやりたい。
そして、冗談にしてはいけないものをジョークにする、ふりをして
それこそ真剣に、
冗談にしてはいけないものは絶対に冗談にしてはいけないことを、
観客に伝えたい。
  
それが、僕とASCの目指すことです。