ハンドルネーム(HN)論争。

ネット上での署名に、実名を使用するべきか、HNでいいのか?!
この論争があってから久しいと聞く。
ASCでは今頃になってこの話題かと、失笑を招きかねませんね。
 
制作の石塚とこの話で盛り上がった。
石塚vs彩乃木の論争。
石塚はHN派、僕は実名派(芸名・本名)。

石塚は、障がい者方面の世界ではリーダーシップ的存在。
結構有名人でもある。
彼女のその方面のブログのアクセス数は、僕のブログの比ではない。
ネット世界の住人としての年月も、その知識量も、やはり僕の比ではない。
つまり、ネットにおける実名使用の危険性を熟知している。
 
で、先の論争。
メールでのやり取りの論争だったが、結局お互いの意見の本質は同じだということが分かった。
(もしかして、僕だけがそう感じたのかもしれないが)
 
きっかけは、ASC関連のサイトやブログでのHN使用の是非について
僕が彼女に相談したことが発端となった。
さらにその前の僕個人のきっかけは、茂木健一郎さんのブログから始まっている。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2007/07/post_b947.html
茂木さんに大いに同感した。

結論。
実名でもHNでも、その名前にアカウンタビリティがすでにあるのならば、どちらでもいい。
アカウンタビリティhttp://www.blwisdom.com/word/key/100004.html

それで、なぜこの話になったかというと、
やはり俳優としての心構えということにその動機がある。
 
ブログ「ASC事務局日誌」でも話題に上がった恩師永曾信夫先生の記憶に残る指導のお言葉。
清水邦夫さんの戯曲「朝に死す」や「ロミオとジュリエット」などの作品名を
「あさしす」「ロミジュリ」などと省略化して使っていることに対して、先生曰く、
 
「君たちは作家がどんな思いでその作品を世に送り出したと思ってるんだ。
 演劇人として、俳優を志す者として不遜な態度ではないか。
 俳優として、劇作家や作品に敬意を払いなさい!」
 
僕は全くそのとおりだと思った。
それ以来、作品名や人名を省略化することは、極力避けているつもり。
(ときどきは、やっちゃうけど)
 
そんな青春時代の思い出も、今回のHN論争の内なる動機となっているかも。
以下は、僕が石塚に送ったメールの一部抜粋。
 
  
う〜んとね、さとみ(石塚)と僕と本質的には同じことを言っているように思った。
HNであろうが、本名であろうが、芸名であろうが、
その名前にアカウンタビリティがある限り
価値あるものになるのではないか、ということ。
 
僕も全くの同感。
  
教えてくれた記事(以下二つ)を読んだけど、
理屈はよく分かるが匿名か実名か論争自体が余り意味のあるものとは思えなかった。
だって、一般論だからね。
  
僕が言っているのは、ASCという創造集団の中においての話。
そしてここでは、ネット上の人物と現実の人物は一致していなければならない。
その双方にアカウンタビリティがなければならない。
それが、プロ意識につながる、ということ。
 
dankogaiさんの記事

名前というのはアカウントであり、その維持には相応のコストがかかる。そのコストを先払いせよというのもいいけど、アカウンタビリティを放棄している者にまでそのコストを要求するのは、過剰請求以外の何者でもない。そして、そのコストを支払えるだけの余力があるものには、それに見合ったアカウントが与えられるのだ。

 
これ同感。
そして僕流にこの文章を変えるなら、こうなるかな。
「俳優の名前というものは一枚看板であり、その維持には強靭な意志が必要。
 その意志をもてない者は、俳優を志すわけにはいかない。
 そして、その意志をもち続けられる者だけが、
 本番の舞台で観客の前に立つアカウント(権利)を与えられる。」
 
ekkenさんの記事

ネット上での人格と現実空間での人格とを容易に同定できるのでない限り、「匿名」だと言わざるを得ません。そのネット上での発言の法的又は社会的な責任を現実空間での人格が実際に負うかどうかという点が、単なる別名使用と匿名の使用とを分けるポイントとなることでしょう。

 
これにも全く同感。
 
要は、HNにしろ実名にしろ自分の呼称に俳優としての責任を持っているかどうか。
俳優「ASCのなにがし」という看板に対する責任と自覚をメンバーに促し続けること、
それが今の僕の役目。
若手自主公演「アンダンテ」を企画したのも、それが目的の一つ。
   
だから、ASCにおけるHN使用の可否は、
さとみのいう「メンバーの自由意志」ではないんだという僕の結論。
プロ意識の持たせ方、演技指導の一つだから。
  
なので僕の意見は、あくまでASC内部におけるHN問題であって、
ネット世界における匿名実名論争とは全く趣旨が異なる。
一般的ネット世界で、HNであろうが実名であろうが僕には興味ない。
ただ、そのHNがどんなにアカウンタビリティをすでにもっているものでも、
その名前の単語自体が変だ気色悪いオタッキーだなセンス悪い、
と僕個人が感じるものは多々ある。
そのHNがアカウンタビリティをもっているものだと、なおさらそう感じる。
言葉が与えるイメージの問題に、僕が敏感なだけかもしれない。
 
なので、僕自身は演劇人としてどこでコメントをしようと
「彩乃木崇之」という看板で出て行くつもり。
ただし、「彩乃木崇之」でコメントすると相手にとって損害を招くような場合、
あるいはこちらの意図しない影響を相手が受けてしまう場合は別だ。
そのときは匿名を使うかもしれないしHNかもしれない。
僕も決して、実名絶対論者ではないよ。