4月シェイクスピア祭でのトークです。

日本シェイクスピア協会から、
4月のトークを原稿に起こしたものをいただきましたので、
ちょっと長いですが、掲載します。
お暇なときに、どうぞ。
 

彩乃木 崇之(俳優・演出家Academic ShakespeareCompany)
聞き手 野田 学(明治大学教授)

シェイクスピア祭第2 部のトークでは、アカデミック・シェイクスピア・カンパニー(ASC)主宰で、
シェイクスピア作品を中心に俳優・演出家として広く活躍しておられる彩乃木崇之氏を招き、
野田学氏の司会でお話を伺いました。以下は、そのときの対談の一部を採録・編集したものです。
 
●アカデミック・シェイクスピア・カンパニーとは
野田学(以下N):彩乃木さんが俳優・演出家として手がけられたシェイクスピア作品数は、
20 演目余り40 公演以上にのぼります。日本でこれほど多くのシェイクスピア公演を経験された方は
日本でも少ないんじゃないでしょうか。彩乃木さんは、以前シェイクスピア祭で
お話いただいた山崎清介さんの「子供のためのシェイクスピア」にも第1 回公演から
出演されていますが、現在ご自身の劇団公演『メジャー・フォー・メジャー』の公演中で、
昨日までの横浜山手聖公会で公演を終えられたところです。
本日は5月3 日から銀座みゆき館劇場で始まる同作品の上演を前に、
稽古の合間を縫って来てくださいました。
まず、この『メジャー・フォー・メジャー』のことをうかがいたく存じます。
最初から教会で上演したいと思っていらしたということ
ですが……。
 
彩乃木崇之(以下A):僕は公爵とアンジェロの二つの役を演じるのですが、
『メジャー・フォー・メジャー』は聖と俗とが混ざった、
宗教色の非常に強い作品です。欺瞞や偽善と倫理観をうまく対比する方法はないかと思い、
この作品を教会で上演できないかと考えていたところ、シェイクスピアにも造詣の深い
横浜山手聖公会の牧師さんのご好意で今回の上演が実現しました。
 
N:今回の公演は、ASC 第32 回公演、しかも劇団創立10 周年記念公演ですね。
劇団のプロフィールには、「シェイクスピア劇およびその関連作品の上演による演劇の普及と、
より高い次元での日本文化への貢献を目指し、またシェイクスピア演劇の実践的研究から教育まで、
アカデミックな活動をおこなうことを目的」とする劇団とありますが、
なぜアカデミック・シェイクスピア・カンパニーという名前をつけられたんでしょうか。
 
A:1991 年にできたグローブ座カンパニーで活動をしていた頃に、
桐朋学園の学生と一緒にシェイクスピアの『ハムレット』を演ることになりました。
そのとき1 回だけのつもりで「アカデミック・シェイクスピア・カンパニー」と
名乗って上演をしたのが最初です。
その後しばらくしてからあらためて劇団を作る際に、
「アカデミック・シェイクスピア・カンパニー」ではどうかということになったんです。
シェイクスピア専門劇団と認知されてしまい他の作家の作品が上演しにくのではないか
という問題もありましたが、その時私自身はこの名前がいいと思いました。
シェイクスピア作品こそが、現代において
最も強力にアピールできるものではないかという思いがあったからです。
ただ単にシェイクスピアを専門に演っていく劇団じゃなくて、
もう一つエデュケーショナルなことが絶対に必要だと思っていましたので、
劇団設立時にはエデュケーション部もつくり、独自にワークショップなど
教育的な活動をシェイクスピア公演に並行して行うことを目指していました。
実際に96 年の劇団の旗揚げ公演は10 月だったのですが、
それに先立つ7・8 月には「シェイクスピア・バラエティー」と銘打って、
シェイクスピアを広く知ってもらうために青少年のための入門講座のような企画もやりました。
最近はそれほどではないのですが、僕らの学生時代には、
シェイクスピアというと学校で習ってつまらなかったという印象が一番多かったんです。
中学や高校で教えていらっしゃる先生は、『ハムレット』や『ベニスの商人』なんかについて、
「名作なんだから読んでおきなさい」というだけで、実際に読んでみると長いし、
よくわからないし、面白くない。
シェイクスピア劇の面白さ、高尚なものでもないし、とくに難しいものではない
ということをきちっと伝えるという意味で、「アカデミック」にしたんです。
 
N: なるほど。有名な作品をありがたがるのではなくて、
あくまで本当に面白い物として伝えるということが、
アカデミックな、エデュケーショナルの場でも行われるべきだということですね。
 
●グローブ座カンパニー
N:彩乃木さんは、桐朋学園を卒業されてすぐに文学座に入団して、
その後準劇団員のときに文学座をお辞めになったわけですが、
30 歳だった1991 年の冬、グローブ座カンパニー発足と同時に参加され、
グローブ座カンパニーのほぼ全公演に出演しています。
今から考えると景気の良い時代でしたよね。
劇団を劇場が抱えていて、それも基本的にシェイクスピアしか上演しない。
しかも2 チームあったそうですね。文学座の西川信廣さんのチームと、
シェイクスピア・シアターの出口典雄さんのチーム。
その時はやっぱり文学座チームに入ってらした。
 
A: もう辞めて5 年くらい経っていたんですが、文学座のチームの方に声をかけていただいて。
 
N: 一方出口さんのチームには、「子供のためのシェイクスピア」の演出を
やっていらっしゃる山崎清介さんや、元夢の遊眠社の上杉祥三さんがいらした。
それで当時は2 本立てだったんですね。91年の11 月に出口典雄さんの演出で
『ベローナの二紳士』と『ペリクリーズ』、
そして12 月に西川信廣さんの演出で
ジュリアス・シーザー』と『アントニークレオパトラ』。
 
A: すごいでしょ。『アントニークレオパトラ』と『ジュリアス・シーザー
をいっぺんにやっちゃう。それもたった6 週間の稽古でですよ。
12 時から22 時まで1 日10 時間稽古で、半分ずつ、夕方まで『ジュリアス・シーザー』で、
それから『アントニークレオパトラ』。
 
N: そもそもは助っ人で入られた『ジュリアス・シーザー』でキャシアス役を演じられて、
結局はチームの中で一番巧かったと評判になったということですが。
 
A: ある俳優さんが急遽出られなくなった時、演出の西川さんが僕のことを覚えていて下さって、
お電話下さったんです。「わかりました是非やらせてください。いつからですか、稽古?」
ってきいたら、「3 日後だ」て言われて、本当に急に決まったんです。
自由劇場の大森博さんがブルータスで、小林勝也さんがアントニー
 
N:グローブ座カンパニーには92 年くらいから海外の演出家が入ってきますね。
ハムレット』、『夏の夜の夢』の演出をベルイマンの秘蔵っ子、
ペーター・ストルマーレがしたりして。
以降はロベール・ルパージュ、ロン・ダニエルズ、ジェラード・マーフィー、
マイケル・ナイマンといった海外の演出家や作曲家とお仕事をなさってます。
結局2 チーム混成になって、他にも人を迎えながら、海外の演出家に付くという形で
色々な作品を作っていらした。以前お話をうかがった子供のためのシェイクスピア山崎清介さんは、
ストルマーレの印象が強いようなんですけれども、彩乃木さんはどなたが印象的でしたか。
 
A:ジェラード・マーフィーが印象に残っています。見た目は海賊みたいでごついんですけれど、
繊細で非常に紳士なんですよね。
 
N: ジェラード・マーフィーではなかったかもしれませんが、
山崎さんが「ロミオとジュリエット」で父親を演じたときに、
「最後の和解のせりふを和解のように言えるか」と聞かれて、
「僕はそんな気持ちになりません」って言ったら、「うん、その気持ちでやってくれ」って
言われたそうで、そのときに、どうやっても良い、好きにやっていいんだ、
ということがわかったとおっしゃっていましたが、何かそういったエピソードはありますか。
 
A: ジェラードはよく “Why?” と言うんですね。稽古の最初1 週間くらいは、
シーンに出てくる人だけでやるんです。
そこで「どういう風に考えている?」って聞かれるんです。
他の人も入っていいんですが、外から覗けないような、非常にプライベートな感じで。
だから非常に正直な事も言えるんですね。
そこで“Why? Why?”――「なぜそうなんだ」――と繰り返し聞かれるんです。
きかれると答えなくちゃいけませんから、家で考えてくるんですよ。
そうするといろんなことが自分の中で発見できるっていうか、引きだされてくるんです。
 
N: たしかに日本ではそういう稽古場が少ないみたいですね。
イギリス人の演出家が日本人相手に稽古やワークショップをやる場合、
日本人が暫く沈黙していると不安になるみたいです。
私が通訳をしていたときにも、演出家に「俺、何かいけないこと言ったか」と言われて、
「心配しなくて良い。みなさん今考えているだけだから」とこたえたのを覚えています。
“Why?” って聞かれる稽古場は、日本じゃよっぽど少ないみたいですね。
 
A: やっぱり指示されることが多いですからね。自分はこう考え、こう動く、と
いう風なことをあまりやらない。ですから、それを教えてもらった、ていうか、
それは山崎さんが思っていた事と同じですね。「何やってもOK なんだ」と。
 
●ASC のやり方
N: さてASC が始まるのが1996 年で、98 年の秋からOnly One Shakespeare37 を始められます。
近頃は37 という数字が果たして大丈夫なのか、色々説がありますが。
このOnly One というのは一人芝居ですか。
 
A: そうです。コンセプトとしては、俳優一人が1 作品を担当して、
その俳優が構成・演出して1 時間くらいで見せる。
ただしダイジェストにしない。
 
N: ダイジェストにしないというのは、どういうことですか。
 
A: その作品の持っている魅力、自分が感じた魅力を最大限に伝えるということを
大前提にしなきゃいけないということです。
要約して作品紹介にしてはいけないんです。
うちはどの作品をやるときもコンセプトをはっきりと考えようという風にしています。
 
N: たとえばなぜ今『メジャー・フォー・メジャー』をやるのかとか、
そういう視点から演目を選んでいらっしゃるということですね。
 
A: 今ここに『メジャー・フォー・メジャー』の今回の台本があるんですが、
もとの本をそのままやっても長かったり色々な問題がありますので、
カットしなくてはいけない。で、カットするときに大事なのはコンセプトだと思うんです。
なぜ今この時期にうちの劇団が『メジャー・フォー・メジャー』をやらなくてはいけないのか、
ということを考えなきゃいけないと思っているんです。
劇団が劇団であるためのアイデンティティは定期公演を打つことにある。
定期公演を打つために何が必要かというと、それは組織としてのコンセプトと、
そのコンセプトに基づいた一つ一つの作品のコンセプトを
常に時代に呼応させてはっきりと打ち出していくということで、
それが劇団としての正しいあり方じゃないかと思うんです。
組織としてのコンセプトとしては、口に出して言えば当たり前だと思われるかもしれませんが、
コミュニケートすることの大切さなんです。
コミュニケートすることが薄れていると言われて久しくなりますよね。
携帯電話もそうですが、メールでも、技術が進歩するにつれて便利に
なってきましたが、それでコミュニケートしているのかと言えば、
相手の時間を束縛していない分、コミュニケートの密度は薄いと思うんですね。
それが電話の場合だと、相手が何かしていても中断して話しをする。
お互いに時間を割くというリスクを背負うから、ちゃんと話そう、
ちゃんと聞こうという風に、コミュニケートする力が強くなっていくはずなんですね。
便利になればなるほど、忙しくなった代わりにコミュニケートの密度が薄くなったときに、
演劇がやるべきことは何かって思ったんです。
シェイクスピアの人物は非常にエネルギッシュですよね。
ロミオとジュリエット』でも『オセロー』でもそうですが、
あっという間に人を愛し、あっという間に人を憎む。
そのリアリティーって何かって言うと、コミュニケートの大きさ、
エネルギーの大きさだと思うんですね。
現代人の感覚から言うと唐突過ぎるという感じがするでしょう。
それをリアルだって思わせるためには、ものすごく大きなエネルギーを
俳優が持っていないと納得できないですよね。
 
シェイクスピアのせりふ
N:シェイクスピアの芝居を読むと、若い人とかはとくに、
「なんか飾り言葉ばっかり多くてわかんない」と言う。
今は、わからないとコミュニケーションが完全に閉ざされてしまうことが多い。
そういう時代にあるにもかかわらず、逆にそのシェイクスピアを使って
コミュニケーションの密度の大切さを示そうとしてらっしゃるから
非常に面白いなと思います。
これは、シェイクスピアのせりふに圧倒的な身体的存在感みたいなものまで
感じるということでもありますか。
 
A: シェイクスピアのせりふを、リアリティーを持って言うためには、
その肉体的な存在感というかエモーションみたいなものを感じないと絶対無理なんです。
 
N: どういう風にしてその肉体的な存在感を作るように、ご自分で心がけたり、
生徒さんに教えるようにしていらっしゃいますか。
 
A: 圧倒的にせりふが多いでしょう、それに思っていることを全部しゃべっていますから、
考えてしゃべる普通のテレビドラマみたいには行かないんです。
大概みんなシェイクスピアを始めたばっかりのころは、せりふに溺れてしまうんです。
せりふを言うので精一杯。
でもこのせりふをお客さんにとっても自分にとっても心地よく言うように、
呼吸法とかせりふ術みたいなものを工夫して、
自分の体に心地良いと感じるにはどうすれば良いかを考えていくと、
段々とせりふを支える体ができてくるんです。
だから体を作っている訳じゃなくて、せりふがあるから声をどう成立させるか
というので体が作られていくという感じがしています。
Only One Shakespeare 37 で『マクベス』をやったときに、
普通に20 人近くでやった台本をそのまま使ってやったんです。
丸1 冊全部覚えるんですね。
で、何がつらいかっていうと、落語と同じで、相手がしゃべっている時に自分の
態勢を整えることができないんです。お客さんは別な人間がしゃべっていると
イメージしていますけれど、本人は一人だからしゃべり続けているんです。
そのときに息継ぎの間をお客さんに感じさせないせりふ術っていうのを
編み出したんですよ。
ブレスを句読点の位置ですると、お客さんは「息継ぎをしたな」と
思うわけです。しかし、ブレスの位置を変えることで、
つまり句読点以外の通常ブレスをしないところで息をすることで聞く側は
ブレスのための間を取っていないような錯覚を覚え、
長いせりふを非常にスピーディーに話しているという印象を与える事ができるんです。
それを長いせりふの中で上手に組み合わせていくと、
早いけど聞き取れている、スピード感があるのにきちんと言葉が聞こえている
ということになるんです。
 
N: それは非常に面白いですね、昨年のトークに来ていただいたのが、
ク・ナウカの宮城聰さんと役者の阿部一徳さんなんです。
阿部さんが似たようなことをおっしゃっていました。
「句読点で人間は息をするものじゃないでしょう」ということで、
こちらのほうが気持ち良いとなると自在にブレスを変えていく訳ですね。
で、あそこは人形浄瑠璃のように芝居を組み立てますので、阿部さんが
語って義太夫を演って、美加理さんが人形ぶりで演技を続けていくときに、
その二つのズレが面白いんです。やっぱりズレが面白いというのが演劇の基本なのかなぁ。
 
A: 名優ほど観客の呼吸をコントロールしているものだと思うんです。
たとえば今度は銀座で公演をしますけど、銀座の木曜日の夜の公演に来てくださるお客さんと
日曜の昼のお客さんは雰囲気が全然違います。それを出て行った瞬間に、
今お客さんはどんな呼吸しているんだろうということを感じて、しゃべり始めるので、
その日のお客さんによってブレスの位置を変えます。ブレスの位置を変えると、
また自分のなかでも新しい何かが出てくるのです。
 
N: 基本的にブレス・コントロールで役を操作するということですね。
 
A: そうですね。それとプロミネンス。
「強調」、つまりせりふを立てるということですが、
大体若い研究生なんかにせりふを立てろと言うと、強くしゃべるんです。
でも強く言うのは日本語じゃダメ。
日本語は高低の言語なので、英語のブランク・バースの強弱を日本語の高低にどう乗せていくか
ということが基本になります。
それに、プロミネンスの処理としては、まず緩急。
ゆっくりいうと強調されますけれど、さらにゆっくり言うと間になりますよね。
強弱、高低、緩急、間の4 つが、日本語を綺麗にしゃべる主な方法なんです。
それに補足として使う手は、無声音、つまり無声化することや、
硬い軟らかい、明るい、暗いを自在に取り混ぜて使います。
シェイクスピアのせりふって、修飾したい言葉の何行も前から修飾語がスタートしている、
っていうことがありますよね。それを一息で言えれば良いんですが、
それは絶対不可能。でも一息で言えているように聞こえて欲しいし、
その間にいくつもの修飾の言葉が並べられているから、
プロミネンスを使い分けて全部計算しなきゃいけないので、
これは音楽の譜面とまったく同じなんですね。
 
N: でも、一方で、『ハムレット』の独白の場合もそうですが、
たとえば ‘To be or not to be’ は言ってみれば標題みたいなもので、
その後ちゃんと話がドミノ倒しみたいに繋がっていて、
頭から綺麗に倒れるようになっているものがありますね。
そういった場合はどうやって演じるんですか。
 
A: 芝居はなんでもそうなんですが、
とくにそしてシェイクスピアの作品をやるときの罠は、独白なんです。
2 ページも3 ページもある独白を演じるとき、「まだある」って思っちゃうと、
もうその俳優は瀕死の状態です。
我々もそうですけど、まず一言何か思いついて、そこから次の言葉が出てきて、
思考ができてきて、そしてさらに次の言葉が出てきてと言う風に、
最初から最後のことを言うためにしゃべってはいないですよね。
なのに、下手な俳優は最後に向かってやっちゃうんです。
自分の中で対話をしているから長くなっているだけで、
すべてが話しながら変わっていく。
そこのところを相手役がいて対話をする場合とまったく同じように、
一つずつ戯曲を分析していけば、独白は聞いていて短く感じると思います。
一まとめにする独白ほど長いものはないです。
 
N: イギリスのRADA (Royal Academy of Dramatic Art) でも、結局シェイクスピアのせりふは
どんなに長いせりふでもスタニスラフスキー・システムで教えるらしいですね。
登場人物の思考は繋がっている。
ただ思考のスタミナというかスパンが長いだけである。
そこには必ず繰り返しなどいくつかのリズムがあって、
ただそれは同じところをグルグルしているのではなくて展開しているわけだから、
スタニスラフスキー・システムでできると、彼らは言うらしいですね。
 
A: それはよくわかりますね。
 
●『メジャー・フォー・メジャー』、ふたたび
N: 一番最初の話に戻るんですけれど、今回『メジャー・フォー・メジャー』を、
10 周年の記念すべき公演に選ばれたのはなぜなんですか。
 
A: 実は3 年位前に『尺には尺を』をやりますって告知しちゃったんですが、
公爵をどうとらえていいのか迷いが出てしまって、取りやめちゃったんですね。
去年あらためて山崎さんの子供のためのシェイクスピアで『尺には尺を』をやることになって、
繰り返し読んで演じているうちに、僕がわからなかったことは
こういうことだったのかもしれないと思ったんですね。
じゃあ、今なぜやるのか。
先ほど劇団のコンセプトについては申しましたが、
今度はその劇団のコンセプトにしたがって作品のコンセプトを
どう捉えていくかということが大事になります。
そのコンセプトにしたがってテキストをカットするのですが、
これは断腸の思いなんですね。
たとえば、このせりふをカットしたら、このニュアンスが飛ぶかもしれない、とか。
これ日本語だとよくわからないけど、原語で読むと、
ああなるほどダブルミーニングになっているんだとわかる、とか。
だけど日本語だと説明できないし、ピンと来ない。
こういう場合など、残しておいて何とかならないか、と思うんです。だけど、それではダメ。
そこでどうするかというと、例えて言うならコンセプトというレーザー光線を作品という原石に当てる。
すると、作品の内部にコンセプトに反応するものがあって、
作品という原石が内部から光ってきて外側が透けて見えてくるんです。
そんな宝石の原石のようなものの内部に鋭い光を当てて芝居を創る。
そういう風な創り方をするのが、ASCにとって正しいやり方なんじゃないかと思っています。
戯曲を分析していくときに、いつも思うことなんですけど、
わからないところをピックアップしていくんですよ。
よく読んでいくと、劇構造がよくわかってきて、ここはこういう意味だ、
となるんですけど、それでもよくわからないところが残るんですね。
他の文献、研究書などを読んで調べてみるんですが、
最後の最後まで残ってわからないせりふが実はコンセプトと反応するものだったりするんです。
あれ、質問の答えになっていませんね。今回の上演コンセプトについては、
チラシの裏面をご覧になってみてください(笑)。
 
N: 毎回、チラシにはその作品について結構長い文章を書かれるんですが、
今回は「問題だらけのLOVE コメディー“いったいだれが正しいのよ?!”」って
書いてあって、確かに一体誰が正しいのかどうか、というのは現代にマッチする
イメージなのかなぁと思って拝見しました。
5 月のみゆき館劇場で舞台では演出も変えて上演されるということで、楽しみにしております。
お忙しい中、本日はどうもありがとうございました。