ボーダーレス。「当たり前」の功罪。

 
  
家族や恋人、友人など、
いつも自分のそばに、目の前にいてくれる人たち。
大切だ。かけがえのない存在。
が、その存在が「当たり前」になってしまうと、
意識的には、日常的に感謝しなくなる。
感謝を飛び越え、次に進んでしまうのか。
ありがたい気持ちをスルーパス、傲慢にさえなる。
愚かにも人は、
最も大切な人に感謝を忘れる。
 
そのことに深く反省しつつも、
別の視点で考えてもみた。
すると、
大切な人がそばにいることが「当たり前」のとき、
悪いことばかりじゃないようにも思えた。
日常的な感謝を忘れてしまうときは、
もっと深い関係性を相手に感じているときではないか。
平常時は確かに感謝を忘れた無礼者のようだが、
非常事態には、無私となり命にかえても相手を救う。
いざとなったら身命なげうつ、という気構えや責任感、使命感が、
日常的な感謝を忘れさせている場合があるのではないか。
一言でいうと、自分と相手との“一体化”だ。
相手は自分でもあるから、いちいち感謝しなくていい?
 
そう思って僕の周りを眺めてみた。
すると、ずいぶん景色が変わった。
家族や友人の行動に対する自分の見方がずいぶん変わったように思う。
かつて筋の通らないことは
どんな小さなことでもひとつひとつ気になっていたが、
不思議と気にならなくなってきた。
というのも、
相手にはもっと大きな筋があるのだと感じられるようになったからだ。
相手からの日常的な感謝の言葉が少ないのは、
僕の気が付かないもっと深くて、大きて、親密なことを、
僕との関係の中で相手が思ってくれている証拠。
相手が、僕と自身を一体とみなしてくれている証拠。
ということは逆に、僕に不平が多いのは、
僕が自分と相手を分別している証拠。ボーダーライン。
 
誰しも自分を認めてもらいたい。
自分の善意は、たとえそれが小さくても気づいてもらいたい。
が、そう思い込んでいるうちは、
自分がどんどん窮屈になる。気が流れない。
くりかえすが、
自分の小さな善意に気づいてもらえないときは、きっと
相手がもっともっと大きな善意を自分に向けようとしてくれているときだ。
少なくとも僕の大切な人たちは、そう考えてくれているようだ、
いまさらながらそれに気が付いた。
 
すると、
自分が口にする「ありがとう」という言葉が増えてきたようにも思う。
つまりは、
認めてもらえないと不満を抱いていたのはやはり当の僕で、
実は一番感謝を忘れていたということか。 
 
★★★★★★★
 
震災を乗り越えようとしている我々日本人。
ボーダーラインなく、いまこそ一体化したい。
 
★★★★★★★