一生懸命の意味と無意味。



一生懸命やることは、とても大事だ。
が、一生懸命やればなんでもOKかというと、
そうは問屋が卸さない。
なんのための一生懸命か、が問われる。
目的が問われる。
方向性の正誤と言ってもいい。
 
子どもの頃、
なんでも一生懸命やりなさい、と教えられた。
そして、目の前の課題に一生懸命に取り組むと
褒められた。
褒められるから、また褒められたくて、
頑張れた。
「目の前の課題」に一生懸命になれた。
 
大人になっても、だから一生懸命やる。
だが、ときどき、いや頻繁に、
一生懸命が徒労に終わることがある。
虚しい。
なぜ徒労に?
ほとんどの場合、本来の目的を見失っているとき。
 
子どもの頃の「目の前の課題」は、
大人が用意してくれた。または、
大人の目にチェックされていた。
つまり、「目の前の課題」は
子どもの自分にとって、必要な正しいことだった。
 
が、大人になると、
チェック機能は自分に託される。
自分のやるべきことは、
本当に自分にとって正しいことなのか、
自分で考え意義を見出し、
それを目的とする。
そしてそれを一生懸命やる。
 
ここが問題、
一生懸命やる前の、目的発見の思考作業で、
かなり大人はミスをする。
 
目的を見誤る。
どこに向かって一生懸命か、方向を間違う。
正しい方向は、子どもならほぼ親からもらえる。
安心して疾走すればいい。
違う方向に行ったときは、怒られる。
間違いがすぐわかる。
 
また大人のもうひとつのミス要因。
それは、媚。
子どもは親に褒められたくて頑張るが、
褒められたいだけでは、大人は失敗する。
他者に媚びるだけだと失敗する。
誰のための人生じゃ?
 
一生懸命。
子どものとき良かったものが、
大人になったとたん否定される、ときがある、増える。
これ、受験時期あたり〜就職前の20歳前後の日本の若者、
結構誰もが経験する。
「自分の将来は、自分で考えなさい!」
と大人たちからいきなり言われる。
「え〜、一生懸命だけじゃダメなの?!」と若者。
ジレンマ。
一生懸命の意味と無意味。
 
そこで若者は、考える。
「どっちにいけばいいんだ、自分は?!」
 
この考える力こそ、教育の最大の目的だ。
子どもたちにこの力を蓄えさせることが、大人の責任。
それがうまく言っていないのが、
日本の教育の現状か。
 
だから、大人も考える。
子どもたちに、将来考えてもらうために。
子どもたちに正しい方向を教えるために。
「目の前の課題」が本当に正しいのかを。
大人は、考える。
 
そして、それが正しいかどうか、大人は
子どもから教えられる。
 
教育は、やっぱり
「子どもたちによる大人の教育」なんだ、と最近とみに実感する。
http://d.hatena.ne.jp/ayanogi/20100825/p1
 
追記:
今朝のスクールガード、
例の危険路(昨日の日記参照)に、イヌ(またはネコ)のウンチが点在。
やりたて。
子どもたちが踏まぬよう、車とは別にさらに注意を促す。
子どもたちによってリアクションが様々、
とても警戒する子、まったく意に介さずスタスタ進む子・・・。
面白かった。
 
※画像は、僕の好きなイラストのひとつ。
公式サイト「Education」(演劇教育)ページの「演劇ワークショップ」でも同種のものを何点か使わせてもらっている。
http://homepage2.nifty.com/asc_web/education/workshop.html