「伝える」ことがわからない?!


 
伝えるのは難しい。
  
想い・思いはあっても、
伝えようとすると、
自分の思いをポンプアップする作業にすぐ入ってしまう。
過剰に熱くなるだけで、伝える工夫はほとんどなされてない。
自分が熱くなれば伝わる、
そんな錯覚に陥る。
だれしも。
 
「理念」という言葉は、
理(ことわり)を念じると書く。
念じる。
このあたりが誤解のもとか。
 
理念はとても大切であり、
なくてはならないものだが、
念じるだけでは伝わらない。
理念はまず、自分にとって大切なのだな。
 
理念を伝えるために、
「理論」がある。
理を論じる。
ここにいたってはじめて伝える作業に入ることになる。
論じることなしには、理は意味を成さない。
理は、「共感」あってこそなのだ。
 
では、理を論じるためには、何が必要か。
おそらく、「安心」だ。
理をきちんと聞く姿勢を相手に促すもの、
それが「安心」だろう。
 
「安心」させる自信がない場合、
不安だから、自分だけのポンプアップに摩り替える。
それを熱意と勘違いする。
独りよがりの熱演。
 
仮説。
熱意とは、
いかに人を「安心」させるかに尽きる。
 
そして、
「安心」は「共感」を育み、
究極の安心感は「感動」を生む。
「感動」の連続が「生きがい」だ。
 
「伝える」行為=「安心」してもらうこと。
 
「伝える」とは、
自分の意見をねじ込むことではけっしてない。
正反対だな。
正論は、往々にしてねじ込み作業に摩り替わる。
正論は、文字通り正しい論理でも、
それゆえに傲慢となり、
ねじ込む作業は、不安や恐怖をもたらす。
伝わらない。
うまくいったように見えても、
隷属を強いているだけ。
それでいいのか。
独りよがりの正論熱演。
 
「伝える」。
演劇教育において、
以下の二つの選択肢でいつも迷う。
 
若者に思いがある場合、
・その大いなる思いをまず引き出すことが大切なのか。
・「伝える」術を具体的演技術として淡々と坦々と教えることか。
 
きっとその両方のバランスなんだな、大切なコツは。
若者の思いを深く、共感をもって、
情熱をもって理解してやる姿勢。
かつ、感情的にならずある意味淡々と日々坦々と
具体的なやり方を根気よく繰り返し身につけさせる。
 
教育者・指導者たる者、
その姿勢は情熱にあふれ、
実際はさっぱりあっさり感情的にならない。
 
お〜、一番難しいではないか。
 
とにもかくにも、
教育は、気配りだ。
これだけは、きっと確かだ。
 
※写真は、
雲ひとつない青空。すっきり。
教育は、こうはいかないなぁ。
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