スカーンと笑い飛ばすのは、愛。だけど痛い?!

『人間の愚かさを知る。そういうことが喜劇の根底にあるものなのでしょうね。』
 
先日の

5月12日の日記【一点の曇りもない強烈な差別】

の方からまたメールをいただいた。ありがとうございました。その中にあったその方の一言が上記。名言。まさにその通り。僕などよりはるかに分かりやすい表現。
 
スカーンと笑い飛ばす。
このことは“あやのぎ塾”のレッスンなどでもよく僕は口にしている。俳優は誰でも、登場人物に同化しようとする傾向が強い。とくに自分に似ている登場人物の場合、同化することによって役を造形しようとし、表現がとてもセンチメンタルでウェットになってしまう。
自分の痛いところを笑い飛ばす。その視点をもつ。それができれば、その視点にポンと自分をもっていくことができれば、芝居も人生もとたんに面白くなってくる。また、他者に対しても変に同情的にならず、本当の意味で優しくなれるような気がする。シェイクスピアはいつもそのことを教えてくれる。
 
笑い飛ばすということは、愛だ。
 
『人間の愚かさをからからと笑いあげることで、客観化し、愚かさを理解できる。』
 
これもその方の言葉。もうほんとにまさにその通り。立て続けにブログで取り上げてしまい、すみません、Nさん。お許しを。
 
カラッと笑い飛ばすとき、最初は痛みを伴う。いやそんな予感がする。痛いんじゃないかと、おおいに思ってしり込みしてしまう。泣く方がたいがい気持ちよかったりもするし。ただ、なにごとも痛みがないと大変なことになる。
まったく話がそれるかもしれないが、つい最近歯のクリーニングのため歯医者にいった。以前治療した下奥歯の親知らずが思いっきり虫歯になっていた。気がつかなかった。すでに神経を抜いていたから痛くならなかったのだ。そのためにもう治療不可能なところまで進行していた。俳優として失格。その歯の相手となる上の親知らずはない。だからその歯はあっても仕方なかったのが不幸中の幸いだ。すぐ抜いた。 
 
痛みは、必要なのだ。