俳優の意識革命

“ニューアクティング”。
これ、この夏の“あやのぎ塾”夏季合宿のコンセプト。
 
この新しい演技術の創造を目指すとき、
どのような方法が必要となってくるのか。
あるいは、この演技術で演じられる芝居とは、どんなものか。
 
“ニューフィクション”。
新しい演技術で演じられるであろう芝居をとりあえずこう名づけてみた。
(う〜ん、もっといい呼称があるかもなぁ。)
 
ではでは、“ニューフィクション”とは?
 
【“ニューフィクション”の創造と、その新たな方法論の構築。】
 
フィクション。
21世紀の今日、あらゆるフィクションはすでに出尽くした感がある。
コンピュータを駆使したエフェクト、
または人間の肉体の極地に達した曲芸的舞台表現。
マシンと人間、その両極において映像表現にしろライブ表現にしろ、
さらなる飛び切りのフィクションを
ぼくら現代人はもう望めない域まで到達している。
言葉を変えれば、これ以上望んでも、そして実現したとしても、
ぼくらはもうさほど驚かない。
フィクションはすでに大きな力を持たない。
 
ノンフィクション。
では、現代に求められるものは、ノンフィクションなのか。
ノンフィクションという表現ジャンルそれ自体も
すでにフィクションの一部であると言う。
それはそうだろう。
他者に見せる限り、表現である限り、それはフィクション化していく。
が、あくまで表現素材はノンフィクション、実在するものである。
 
間(あわい)。
 
“ニューフィクション”。
フィクションとノンフィクションの間に位置するもの。
AでもBでもないもの。しかし、CでもDでもないもの。
もちろんEでもFでもなく、GでもHでもなく、・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・Zでもないもの。
 
じゃ、なんだ?
 
そこでは、リアリティというものもあまり問題にはしない、たぶん。
というか、リアリティそのものの定義ができない状態。
そんなよくわからない、ある種「ほっとかれた」芝居、
それを“ニューフィクション”と呼んでみる。
(まるで意味不明かな、これじゃ。)
 
とにかく、これまでの演技術では到底演じることが不可能なもの。
その創造のためのまったく新しい俳優メソッドの構築。
で、そこで生じるのが「役づくりとはいったい何か」という古くて新しい問題。
 
【 “ニューフィクション”が目指すもの 】
 
コミュニケーション。
人がいて、人がいる。
なによりも重要なのは、その両者をつなぐ「間」。
それがあって初めて「人間」としての強力な関係が成立する。
 
“ニューフィクション”が目指すもの、
それは「生きた言葉」「強靭な人間関係」の新たな創造。
 
ま、このことは、全ての演技メソッドが目指していることではありますが。
最も重要なのは、次のこと。
 
【 俳優の意識革命 】
  
いま日本の演劇界では表現形態は多岐にわたり、
それは創造者、とくに作家・演出家の様々な個性の爆発的開花であり、
いやまったく本当に喜ばしいことである。
がその中で、創造者側でありもっとも観客に近く
表現の当事者である俳優の意識は、
どのような変化を遂げてきているのか。
 
ロシア演劇を代表する近代劇、
それがもたらした演技方法論スタニスラフスキー・システムは、
全世界の演劇人に画期的な衝撃を与え、
アメリカではメソード演技と名を変え、多くの名優をこの世に送り出した。
その他、多くの優れた演技術が現代にはある。
 
が、
いまや、
それらの演技術は、
どんな風に受け取られているのか。
 
演技術の多様さは、もはや俳優にとって革新的ではない。
乱暴ないい方をすれば、個性的な自己流との差がほとんどない。
多様化の行きつく先は、自己流?
 
でまた別の側面からみると、たとえば、
いかにも自己流でずっと演じてきた中堅どころのオモロイ役者が、
今頃になって、スタニスラフスキー著「俳優修行」を読んでいたりする。
なんで?
個性的自己流と近代劇的方法論、その二極しかないの?
 
少々生意気かもしれないが、
この遅々として進まない俳優の独善的自我にこそ、
革命的な変化が必要なのだ。
 
 
 
“ニューフィクション”が目指すもの、
それは
創造者の中心たる俳優の、その意識革命である。
そしてその方法が、“ニューアクティング”。

(これも別のもっといい呼び名がないかなぁ)
  
  
【 新機軸の発信 】
  
現代日本演劇界における新機軸の発信。
それが新生ASCと僕の努力目標。
まったく次元の違う俳優メソッドをつくる。
多様化する演技術に意味はあるのか、なんて言っておきながら
それでも模索し続ける。
そこが、いい。
 
僕の大発見を必ず本にまとめて出版します。
皆さん、ぜひ読んで!
 

飽和状態にある現代の日本演劇界に、一石を投じることができればと願う。