教え。

昨日機会あって、二つの俳優養成専門学校の授業をそれぞれ別に見学した。
クラスはどちらも1年生。この春入ってきたばかりの新入生たち。
 
明るい。
そしてまだあどけない。
 
最初に行った学校のそのクラスは、1時間半の授業、
シアターゲームが中心だった。
次の学校は3時間のレッスン、ストレッチと発声、
その後簡単な課題の発表と、台詞。
この時の講師は、日野。
ASCや“あやのぎ塾”では見せない彼女の新しい一面を見た。
面白かった。
 
それにしても、教えは難しい。
というより、演劇における教えっていったいなんだ? 
ってなことばかり、ずっと考えさせられた。
演劇は教えられるのか、ってことは
もうずいぶん前から論議となっているが、
いや、その論議はすでに古いか、
もう10年前くらいからかワークショップ主流の昨今、
演劇は教えることができるというより、
教育の一種、メンタルケア、人生を楽しむため、
それらの需要のため演技レッスンは必要とされているように感じる。
 
となると、演劇専門学校や演劇大学などで教えることの意味も
僕が始めた頃より当然変わってきてるんだろうな。
その違いと意義、僕の中でぼんやり分かるがはっきりしない。
 
僕自身、それらの機関で今は教えをしていないが、
僕が教えるときに一番モチベーションが上がるのは、
彼らがその瞬間人生を謳歌したという実感を共有できたとき。
その一点こそが教えのときの僕の目的。
だから、公演の本番とまったく変わらない。
過去僕が桐朋文学座養成所などの訓練期間で、
レッスンを受けていたときもそうだったと記憶している。
 
だけど、どうも最近は違ってきているような気がする。
パフォーミング・アート・センターや
沖縄アクターズで講師をしていたときもそれは感じた。
 
地方におけるワークショップと東京での専門機関におけるレッスン、
その目的は、演劇を専門職とするかしないという視点で
大きく変わってくるはず。
そのボーダーラインが、僕の中ではっきりしなくなってきた。
 
僕に教えられること、それはなんだ?
 
そんなことを大いに考えさせてもらった一日だった。
感謝。