【ホールディング】について

以下の文は、現在「不届千萬忠臣蔵」に一緒に出演している
ある出演者の方の質問メールに僕が答えたものです。
昨日の稽古で、その方に僕が「演技をホールディングしている」と発言したため、
そのことに対してのより詳しい説明が欲しいとの要望でした。
僕の「演技観」を述べたものになっているので、ブログにも掲載したくなりました。
相当長いので、お暇なときにどうぞ。
プライベートなご質問だったので、彼のお名前は伏せてあります。
 
  
ではまず「ホールディング」についてですが、台詞術に限っての場合、いい意味で言うならば、これは「プロミネンス」のひとつのテクニックといっていいと思います。**さんもおっしゃるように、印象付けたい台詞などに使用する場合、有効になるケースもあると思います。
**さんの台詞の癖は、「プロミネンス」(台詞の強調)の観点から分析すると、「緩急」の「緩」、つまりゆっくりしゃべるというテクニックと、「高低」のテクニック、それに「間」を組み合わせたものといえるでしょう。

これは●●さんの影響がもちろんあることだとは思いますが、ただ**さんの演技においての真の課題(ちょっと大げさな表現ですね、すみません)は、プロミネンスの問題ではないような気がします。
おそらく、●●さんの要求する歌舞伎的台詞術を模倣することで、**さんの演技の問題点を、**さん自身に自覚させる邪魔をしてきたのではないか。言葉を変えるならば、歌舞伎的言い回しが、**さんのウィークポイントをごまかしてしまっている。
だから、いつの間にか、自分でも気がつかないうちに現在のような物言いの癖がついてしまっているのではないでしょうか。つまり、**さんにとって、自分の欠点をごまかすことのできる都合のいい台詞術となってしまっているということでしょうか。そしてその結果、少々「クサイ」。つまり、短所をごまかすために、プロミネンスのテクニックを多用しすぎているからです。ずけずけ言って、申し訳ございません。

**さんの演技の真の課題は、台詞術に限らず、やはり「ホールディング」にあるように思います。
では、「ホールディング」とは何ぞや?
  
「ホールディング」とは、その言葉通りの状態のことです。抱え持つこと。
バスケットなどのスポーツでは反則となってしまうように、瞬時に人から人へパスされる「演技」という球は、必要以上に自分が抱え持ってはいけないのです。このことをはっきりと勉強させてくれるシアターゲームが、「クラップリレー」や「ジップザップ」などですね。
「ホールディング」を避けるために必要なこと、それが「戯曲の分析」であり、全体の「劇構造の把握」です。観客のためには、この瞬間何を観せる事がベストなのか、そしてそれを、バスケットのボールよりも数倍も速いスピードで行わなければならないのが演技です。「戯曲分析」と「劇構造の把握」は、人物の動機を細部まで探るために絶対に必要な作業ですが、それは、「演技」という球を絶妙のタイミングで正確に相手役にパスするためにも不可欠な作業なのです。
 
「イニシアチィブ」という言葉も、僕はよく使います。これは、「演技」という球が自分のもとにあるということですが、映像表現で言うところの「アップ」です。舞台表現の場合、ひとつの場面で複数の登場人物が舞台上にいるということは多々ありますが、その場面の一瞬一瞬は、観客は必ず一人しか観ておりません。ただし、いい芝居は観客の興味が移り変わるそのスピードが非常に速いのです。球がパスされるスピードが速いということです。遅いと、観客は眠くなってしまう。
映像表現の場合、監督がどの瞬間をアップで撮影するかを決めるように、舞台表現の場合演出家は、そのことを計算し、観客の興味の移り変わりをコントロールしていきます。ただし、舞台の場合、演出家だけでは、その作業を全うすることは不可能なのです。そこに舞台俳優という仕事の、醍醐味があるといってもいいでしょう。
 
舞台は、生です。舞台上にいる登場人物たちは、観客と同じ空間を共有し、同じように呼吸している。同じように今生きている人間の息づかいが、そこにはある。
名優といわれる人ほど、観客の呼吸をコントロールしています。つまり、観客が息を吐くタイミングと吸うタイミングをコントロールしているのです。それが、観客の感動につながることを、とてもよく知っている。
それは、「イニシアティブ」(主導権)ということを知っているということでもあります。たとえタイトルロールを演じていても、観客の感動の呼吸のためには、その主導権を他者に渡すことはとても必要なことなのです。正確に、絶好のタイミングでパスできるからこそ、その球は再び確実に自分の元に返ってくる。ブラジルのサッカーなどの見事なパスワークとゴールは、まるで芸術だと感じることはありませんか。いかに優秀なストライカーでも、自分ひとりではゴールできません。タイトルロールを演じるということは、パスをだす機会もパスが戻ってくる機会も非常に多いということであり、だからこそ正確さとタイミングの判断能力が勝っていないとできないのです。
 
ここで次に、集中力という問題が出てきます。
集中力とは、文字通り「力を一点に集める」ということです。ここで誤解されやすいのは、自分の中に力を集めると錯覚してしまうことです。
一点に集めるのは、パスをする相手に対してです。つまりは、観客に観て欲しい部分に力を集める力、それが集中力です。
ということは、自分の中ばかりに意識がいってしまっては、それは集中している状態ではない、拡散している状態、別の言葉を使えば、演技的には休んでしまっている状態です。自分にばかり意識がいっている状態を、僕はよく「オタク化」していると言っていますが、いくら大きなエネルギーを使おうとも、自己の内面のみに意識を向けていると、それは他者(相手役)の存在を無視していることになり、観客も含め、他所の存在を抹消していることと同等です。極論すれば、殺人と同じです。
よって、観客は、自分のことばかりにとらわれている俳優に対して、不快感を感じます。そして当の俳優は、自分では懸命にやっているという自覚があるので、観客からのそのような評価に愕然としてしまう、憎しみさえ感じる。
ただ、一度そのような状態になっても、すぐに回復できる俳優もいます。それらの人が持っている共通の特徴のひとつが、「素直さ」です。
「素直」であることが、演劇のみならず人生全般において、最大の美徳だと僕は思います。とくに表現の世界では、不可欠です。そもそも「表現」とは、「表に現れる」と書きます。「表に現れた」ものに対して、観客は「素直」に反応してくれる。それが自分にとって好まざるものであったとしても、それが「表に現れた」ものなのです。観客が「素直」に伝えてくれたものを、表現者は「素直」に受け取ればいい。そこにこそ、演劇芸術の本質があり、人とのつながりと愛の本質も存在するのではないでしょうか。
 
また、舞台表現には、物理の法則が存在します。これは集中力とも大きく影響しあっています。自分ではない存在の一点に、複数の人間が協力し合って力を集めるためには、舞台空間を個々が把握し、物理の法則にしたがって有機的に動いていかなければなりません。それも瞬時にです。
そしてそのためには、重心ということが大きな要素になってきます。「重心の位置」=「人物の動機」を表しています。たとえば恋愛シーンにおいて、愛の告白の台詞を語るとき、語るべき人がその相手に対して、重心を当然前方に置くでしょう。もし後方に重心をかけるとしたら、それは愛の告白とはまったく逆の批判的な印象を観客に与えてしまうのではないでしょうか。
 
**さんがご自分でも面白いことを、昨日言ってらっしゃいました。「宇宙刑事シャダーン」に自分はなっていると(笑)。
僕が稽古中に、動きと動機がちぐはぐになっている役者に対して、「ばらばら星人」などと冗談で命名しているからですよね。**さんがそうおっしゃったのは、演技において、関係性を遮断(シャダン)してしまう位置関係に、自分は入ってしまうということですね。
これも、「ホールディング」の問題とまったく同様です。「ホールディング」も「遮断」も、それが行われた瞬間、観客はそれを行った人に集中してしまいます。また、それらを行ってしまうとき、その演技をした自分には自覚がないことが殆どです。なぜか。自分の役のみを考えたとき、なんら矛盾はないからです。しかし、「劇構造」の観点では、明らかに邪魔になっている。邪魔になるから、観客はそれを見てしまうのです。
  
俳優の悩みのひとつに、「役を自分に近づける」か「役に自分を近づける」か、というものがあります。前者は、実は必要ありません。俳優に必要なのは、後者のみです。なぜなら、そもそも役柄というのは、私的な自分ではなく、まったく別人格だからです。また「劇構造」の観点から見ても、日常の自分とはまったく違います。役を自分に近づけようがありません。
別の言い方をするならば、自分という人間は世界にただひとつの存在であり、スペシャルワンです。高価なダイヤモンドより希少価値です。そして、人間は絶対に他者になりようがない。なりようがないからこそ、他者に近づく努力が必要であり、他者に近づこうと努力すればするほど、スペシャルワンの存在である自己が輝きを放つのではないでしょうか。よって、「役を自分に近づける」ことなど意識する必要がないのです
 
「ホールディング」や「遮断」をしてしまっているとき、それは「役を自分に近づけてしまっている状態」ということができるかもしれません。その演技は、自分の中では矛盾がない。しかし、「劇構造」上は、観客の感動のためには、邪魔な存在となっていることがあるのです。自分ひとりだけで演技をしてはいけないのです。
演劇の魅力と本質は、他者である人間同士との、より深く豊かな関係性、その一点に尽きるのです。
 
ASC代表 彩乃木崇之