技術とは・・・

オペラを演出していたときによく感じた。
なぜ歌い手によって、同じ曲なのに感動させてくれる人とそうでない人がいるのだろう、と。
技術的には、差はないように思う。
いやむしろ、後者の歌い手のほうが技術的には勝っている場合もある。
 
想い。
 
歌い手の想いが足りない。
想いが足りないから、それが波動となって人の心に響かない。
全てのものには、波動がある。物質にもだ。
物理学的には、物質は常に振動している。つまり、波動がある。
以前、BBS“代表の徒然”で紹介した江本勝氏の名著「水は答えを知っている」では、
文字に書かれた言葉にも波動があり、その波動を感受して水が結晶を変えていくという
興味深い真実もある。
つまりたとえば、「感謝」という文字を貼り付けたビンの中の水は、美しい結晶となり、
逆に「バカヤロウ」など罵倒の言葉を貼られた水は、結晶が無惨に崩壊する。

歌は、言わずと知れた空気の振動だ。
だがその振動だけでは、心に届かない。
そこに人の「想い」という波動が必要なわけだ。
 
歌も芝居も、まず「想い」があって、それが感動的な表現へと昇華していく。
その間に介在するのが、技術だ。
目指す表現の姿も分かっていて、想いもある。
なのにうまくいかないときがある。
原因は、技術不足。
 
技術は方法論でしかない。
人を感動させる芸術家は、そのことをよく知っている。
技術至上主義になってしまっては、どんなに卓越した技術を身に付けようとも、
人の心は動かない。
 
また、目指す表現の形をしっかり持った「想い」は、技術を欲しがる。
技術を習得していく過程で、一つずつ習得されていった技術は、
感性にさらに磨きをかける。
技術を習得したにも関わらず、感動的な表現のできない者は、
技術を習得した自分に対して慢心している。
先の歌い手がその例だろう。
 
常に強い「想い」を抱き続ける者は、自分の技術にいつも未熟さを感じる。
なぜか?
「想い」も目指す「表現」も、技術を習得すればするほど、
更なる次元にステップアップしているからだ。
 
大切なのは、「想い」という志。
そこから、「表現」がイメージされる。
技術は、その間にある方法論。
それらは常に動き続け、進化し続ける。また、進化し続けなければ芸術ではない。
 
ASC演劇研究センターのスローガン
『感性は、技術によって磨かれる。』
これは決して、技術至上主義の言葉ではない。
磨かれ続ける感性こそが、演技に最も必要なのだ。
その後に、真の「表現」が存在する。