邪念

『いいんだよ、売れたいと思っても。
それは邪念ではない。純粋な君の気持ちかもしれない。
潜在意識からのメッセージに対して、
意識的な価値観で優劣を決めてかかると、あとで仕返しされるよ。
「いいは悪いで、悪いはいい。」(マクベス
自分のなかで生まれてくる気持ちを全部受け入れてあげること。
全部君の一部だ。そうすると、自ずといろいろなことが見えてくる。
それが、自分をコントロールするということかもしれないよ。』
 
上は、コウタロウのブログへのコメントだ。
http://d.hatena.ne.jp/kotaro-i/
大西も「やっかみ」という邪念について、書き込んでいた。
http://d.hatena.ne.jp/airabuyu/
なので今日は、邪念ということについて。
 
感動的な作品は、芝居への純粋な情熱がなければ生み出せない、
とコウタロウは言う。まったくその通りだ。
だがそれは、自己の中に同じく生まれる別の感情、
自分では認めたくない類の雑念、邪念、つまりは悪意につながるような思い、
それらの感情を否定し打ち消しすことによって、
純粋な情熱が生み出されるというのではない。
 
邪念ややっかみなど負の感情こそが、正の意志を生み出す母体だ。
振り子は、片方に大きく振れれば、反対側にも大きく振れる。
負の感情が高まるときこそ、大きな「純粋な情熱」が生み出されるチャンス。
ポジティブとネガティブを合体させた野口の造語「ポガティブ」は、
それを正に言いえていて、面白い。
 
聖職者という職業、もともとは煩悩の多い人がなるという。
人は、正邪あわせもつ存在だ。
自らの半身を切り捨てては、生きてはいけない。
邪をなくすことはできない。抑え込むことも不可能だ。
下手にそんなことをすれば、必ずしっぺ返しが待っている。
コントロールすること。愛してやること。
 
清濁併せ呑む心意気、それこそが演劇に対する「純粋な情熱」だ。
シェイクスピア作品が400年もの間愛され続け、
人々を感動してやまない理由は、それだ。
 
人は、悪いところもあってこそ、人間らしい。