う〜ん、むずかしい&本当の「子供のため」とは?

“あやのぎ塾”の後期のレッスンがスタートした。鳥取ハムレット」やサマーキャンプなど、この夏は例年に比べとても盛り上がった。さて、その打上げ花火の喜びと収穫をどう日々の訓練に反映させていくか。また指導する僕は、彼らにどのように新たな指標を示し、モチベーションを一時的なものに終わらせず持続するよう導くか。高めることができるのか。
 
むずかしい。
夏の出来事が具体的な収穫ではなく、彼らにとって個人的な感傷と反省だけに終わってしまいがちになる。そのことを指摘する僕の口調は、彼らの夏の真摯な姿勢を目の当たりにしていただけに、つい説教じみて厳しい言葉となってしまう。結果、夏の達成感が薄れていき、虚無感に変わってしまいそうな雰囲気になる。
 
僕に欲が出るからいけない。
この夏は子供たちを中心としたワークショップを全国で何回かやらせてもらった。基本的にはみんな成功したと自負している。子供たちのモチベーションは確かに高まった(前回日記)。同じ姿勢で塾生たちとも接すればいいのだが、つい欲が出る。「プロに早くなってほしい!少しでも早くうまくなってほしい!!」と。この欲望が叱咤になってしまい、塾生の不必要な自信の喪失を招き兼ねない。
 
確かにうちの子は、ほかの演劇志望の若者たちと比べややデリケートだ、バカ正直すぎるきらいがある。それは真っ直ぐで素直という長所にも通じているが、反面打たれ弱い。往々にして真剣を通り越し深刻になりがち。
その特質を分かっていながらどうなのだ、と僕は自分に問いたくなる。つまり、大切なことが伝わっていないのだ。伝えていない。かりにも演技者である僕の表現は、観客に伝わらなかったと同じこと。
レッスンの後は、ほとんど飲み会になる。その飲み会が、僕の説教会場と化してしまうときほど、一人ぼっちの帰路が本当にむなしい。申し訳ない。自己嫌悪。
 
塾生との新しい関係の構築とその連続。“ニューフィクション”メソッドの根幹。
作品創造の作業として演劇的には、その具体的な方法はすでにはっきりある。だが、それがうまく伝え切れなかった。何が問題なのか。僕の覚悟の問題か、ビジョンに現実味がないのか。単なる言葉の選択ミスか?
 
『指導者としての僕の演劇とはなんだ?!』
 
子供は、新しい関係を次々と創り出し自分だけの物語を紡ぎ出す天才。しかもそのスピードと連続性は目を見張るほど早い。子供たちには邪魔な過去がない。接するすべて目に入るもの全部との関係が、いつも新しい。いってみれば“ニューフィクション”メソッドの天才。
子供のため、いやそんな大人目線ではなく、
 
『子供たちにとって真に有意義な、子供そのものともいえる演劇とはなんだ?!』
 
新しい関係を見つけ続ける行為こそが、未来につながる。子供という存在そのものがそのことを教えてくれている。子供とは、将来への可能性そのものだ。次世代を見つめない芸術は意味がない。舞台芸術はなおさらだ、オンタイムでの表現だから、今しかないからだ。その意味では政治も然り。子供とその将来性を第一義にしない政策は無意味、というかまったくのナンセンスで有害だ。
 
実演者としてだけではない、僕にとっての上記の新たな二つの命題。
真剣に取り組みたい。
“あやのぎ塾”の、そして15周年を目前にしたアカデミック・シェイクスピア・カンパニー(ASC)の使命としたい。