続:おのれのハートをわしづかめ! “ニューフィクション”の効用7

衝動。
これは誰でも感じるもの。意識的にしろ無意識にしろ、衝動によって人は行動している。
日常生活においては、自分の衝動を意識するときとしないときがある。
なぜ?
どんな場合に意識するのか、しないのか。
 
相手に共感したとき。その衝動はほとんど意識されない。無意識にその衝動に従い行動している。たとえば面白い話をきいたときなどだ、思わず笑っている。
衝動を強く意識するときは、その衝動に従って次に起こす行動を考察するときだ。なぜ考えるのか。それは、相手の考え方や意見などを変えようと試みるからだ。つまり自分に共感してもらいたいとき、少なくとも理解してもらいたいときだ。
 
劇中の主人公は、たいがいの場合大きな動機を持っている。で、その動機や行動を邪魔する存在が必ずいる。主人公はやりたいことをやらせてもらえない。対立関係と構造。そこからドラマはスタートする。
つまり主人公は、対立する人物の考え方を何とか変えようと七転八倒するのだ。
自分のその衝動を思いっきり意識し(たとえばハムレットは、その衝動を独白で何度も語る)、衝動を意志として思いっきり相手にぶつけていく。投げつけていく。
相手を変えることに全エネルギーを傾ける劇中の人物には、無意識の衝動はほとんどない。全部が意識的に扱われると考えていいのではないか。 
 
俳優の仕事は、唯一絶対の自分の感性から次々生まれ出る衝動を意識的に瞬時にわしづかみにし、それを思いっきり相手役に観客に投げつけていく。それだけでいい。それができれば、相手役と観客のなかに大きな衝動が生まれ、必ず思いっきり相手役と観客から同じように投げつけられる。するとさらに大きな衝動が自分の感性から生まれ出る。
 
衝動をつかみ、投げる。
ただそれだけ。
自然発生的に生まれ出る衝動の種類を吟味する必要はない。それをやると途端に理屈にとらわれ、衝動は生まれることを阻害され腐る。
よく議論されるところの、「それは役の気持ちか、それとも俳優の個人的な思いか?」などという議論は、本当に不毛だ。いや不毛であるだけではなく、きわめて有害だ。
大体どうやって区別ができるのだ。
俳優の感性から湧き出る衝動はすべて正しい。そう考えたほうが、はるかにいい。
その衝動を分別することなくすべてしっかりつかみ出し、すべてを思いっきり投げる。それこそがライブ。
 
衝動のわしづかみを意識的に行うこと、それをすべて意識的に投げつけること。
俳優訓練の最重要事項はこれだけだ。「意識的に」というところが肝心。意識的にそれを行うことが習慣になれば、その行為は徐々に「無意識」が担当してくれるようになる。そうなってしまえば、もうめっけもんである。その状態になった俳優はたぶん、イタ(舞台)の上に立つことが楽しくて仕方がないだろう。ムダな緊張や恐怖から解き放たれる。自由。
あとは、「ほっとく」。
劇的なるものとは人間そのもの。観客はそのことを目の当たりにするだろう。
 
“ニューフィクション”メソッドが目指す演技術は、いたって簡単だ。
衝動。
そしてメソッドを実践するためのヒントは、意志を持って「新しい関係」を構築することだ。