いま君がそこにいるということ。〜神明中学の指導で思う〜

 
 
 
何かが違っていた。
今回の神明中学での指導に思う。
 
 
到達すべき目標値があらかじめ想定してあったように思う。
僕の中にも、そしてこれは勝手な想像だが、顧問の先生の中にも、部員みんなにも。
具体的な目標値は各々さまざまであったとしても、
到達すべき頂上に行かねばならないと各人が思い込んだ。とくに僕が。
これが一番の問題か。
 
 
また、僕がかかわって4年目、伝統らしきものが部員の中に芽生え始めていることを感じた。
それを嬉しく思ったが、それによって当の部員たちが縛られてしまったのではないか。
そんなことを今思う。
 
 
演劇はもっと自由であるはずだ。
これでいいんだ、と思った瞬間に呪縛の罠にはまる。
 
 
中学生は、とくに神明中の子どもたちは、本当に純粋だ。
純粋すぎると言ってもいいくらい。
だから、大人を信じすぎる。
指導者である僕を信じすぎてしまった。
そして自分たちの持つ自由を手放し、羽をもがれた。
僕の責任。
 
 
大人を全面的に信じてはいけない、
でも自分自身も信じられない、
人の一生のうちもっとも不安定な心持ちの時期が思春期なのは言うまでもない。
 
 
中学生が演劇をやる意味とは。
演劇が中学生に果たす役割とは。
思いやりや共感など、教育的な意義はもちろんあるだろう。
が、それらは最も大事なことではないような気がする。
 
 
熱烈に人が生きている。
その存在自体の迫力、意味や価値を問う必要などない、その尊さ。
圧倒的な生きるエネルギー。
自由とは、そういうことだ。
 
 
それが演劇の核心だ。
それさえ彼らが感じてくれれば、
中学校という教育現場に限らず人生のすべてのシーンで、
演劇はその任を果たす。
 
 
馬鹿みたいに懸命に生きている。
そんな人間が一番素敵。
 
 
今回、僕の気持ちと実際の現場がどうも遊離していたように感じたのは、
僕自身、本質から若干ずれていたからだ、
告白すれば、おそらく自分の指導で伝統ができ始めたことに悦に入っていたのだと思う。
 
 
「いま自分は、ここにいる。」
ひとりひとりがそう思えることがもっとも大切だったはず。
 
 
演じる役はその道具に過ぎない。
サングラスをかけるといつもの自分とは違う感覚になる、
何か自由な気持ちになる、
役とはそういうもの。
自由な気持ちになった自分こそがいい。
役柄は本質ではなく一部分、きっかけにすぎない。
 
 
熱烈に、強烈に、訳もなく、馬鹿みたいに、最大限に生きる。
架空の物語の中だからこそ、自由になれる。
 
 
みんな、本当にありがとう。
そして松原先生、心から感謝しております。
 
 
 
2013.8.20早朝 彩乃木崇之
 
【追記】
日常の生活の中にも、もちろんとても自由な人がいる。
心が解き放たれている自由な人の行動は、さりげなく、愛情はとても深い。
そして、深いのに愉快な人が多い。
 
 
それにしても、「指導」という言葉にはちょっと違和感を感じるなぁ。
指さして導くって、神様じゃあるまいし。
 
  
彩乃木twitter
https://twitter.com/asc_ayanogi
関連していろいろつぶやいています。
 
 
 
http://d.hatena.ne.jp/ayanogi/20130828
「神明中学演劇部は、抜群!」(8/29記事)