自分が、信じる

2012.09.02
文化庁ワークショップの報告・自分が、信じる
(この記事は、助手として同行した日野聡子のブログより転載したものです)

先日は再び、彩乃木さんと神明中学に赴いた。
県大会出場校に選出されなかったこと、
それを皆はどのように受け止め考えているのか、
何よりも、指導の方向が違ったのか、
それを見つけ改善するため。
 
指導。
指し導く。
この時大人は、子どものどの位置に立つことが良いのだろう。
時には後ろに回って背中を支える、
隣りに座って同じ方向に顔を向ける、
子どもを抱きしめて、身体を張って庇う。
背中で、自らの意志に向かう姿を見せる。
 
自信という言葉があった。
自分たちの思いが審査員に伝わっていなかったことにショックと憤り、そして、伝わる演技ができていなかった。
伝わる演技とは何か。
自分を信じる、と書いて自信。
が、「自分が、信じる」ではないかと。
自分の思いを、あの時自分は信じていたか。
今この瞬間を、自分が信じるか。
 
本番も観て思ったのは、
どの学校の子も皆、真摯に一生懸命だった。
きっと先生の指し示す頂上に、一生懸命向かった。
ただ、神明中学の皆は山の頂上がどこにあるのかもわからなかった。
山の頂上さえ、自分たちで見つけようとしている。
それで良いと思う。それが良いと思う。
大人はそんな子どもを見守り、
横に座り、
時には身をもって庇う。
 
そして、それを子どもに伝えなければと思う。
どんなに叱っても、見守っていることが伝わっていなければ、子どもにとってただの敵になってしまう。
この思いを、伝える工夫はしているか。
思っていれば伝わるはずと思っていないか。
自分が信じる、その上で、伝える努力を諦めないのが大人だと思う。
「君のためだ」という言葉ほど、やる気を殺ぐものはない気がする。
思い通りになって欲しいという一点の濁りが、相手の水をも澱ませる。
「僕のために君の力を貸してくれ」と言える大人は少ない。
ただ黙々と、背中を見せ風雨から守っている大人は少ない。
 
神明中学の皆に何を言えば役に立つのか考えながら話したが、
省みると自分が思ったことを語っただけだ。
もう一歩踏み込む馬力が足りない。
それは、役に立ちたいという意志にもう一歩踏み込むことかもしれない。
自分に踏み込むことが、相手に伝わる言葉、人を動かす位置になる。
 
それにしても、子どもは大人だなと思った。
ぐちゃぐちゃな自分を認識していること自体が優しくて強い。
そんな自分が信じるものを見つけようとしている中学生に、
大人として役に立つ位置はどこか。
演技とは立ち位置でほとんど決まるというから、よく似ている。
これでもかとばかりに向き合っているのが芝居の人物達なのだからあたりまえか。
いつも教えてくれるのは周りだ。
感謝を。
 
助手 日野聡