[“ニューフィクション”][コミュニケーション教育][演劇教育]ごめんね。いいよ。


 
『毒は吐かれても、決してその毒をそのまま受けない。毒を吐く相手の気持ちを察したい。そうすると、毒を吐かせないために自分ができることが見つかったりする。こういったことも一つの創造活動だと思う。』
 
『人が毒を吐く理由はわかっても、その行為自体には好感を持てない。または、その人が招いた不幸な結果だとしても、その状況におかれた時の辛さは、痛いほどよく分かる。「あいつのことはまったく理解できない」または「ざま見ろ」といった心持にはなりたくない。』
 
ツイッターでつぶやいたが、ふと極論してみた。
「その人が招いた不幸な結果」の究極のひとつは、死刑宣告か。
でもって、「その状況におかれた時の辛さは、痛いほどよく分かる。」と書いたが
本当にわかるのか?
たとえば、死刑に値するその罪が、
自分の愛してやまない家族を惨殺されたとしたらどうだろう。
そのせいで死刑になるのに、「きっと辛いのでは」なんて思えるか、
こっちのほうがもっと辛いわい!
あるいは、「マクベス」のマクダフのように、
家族虐殺犯のマクベスに呪いの言葉を吐く前に、
「罪深いマクダフ!」なんて自分を責める境地になるかな。
 
マクダフ「いっさいの邪魔ものをとりのぞき、ただちにおれをスコットランドの悪魔の面前に突き出してくれ。この剣の届くところにいてなおやつが逃れえれば、天がやつを許してもかまわぬ。」
 
「天がやつを許してもかまわぬ。」って、これもすごい言葉だ。
「天が許しても俺は絶対に許さない」とは言っていない。
 
前回のSPACE U公演「ヴェニスの商人」では、
「許しとは」「人間性とは」ということが、僕の中で大きなテーマとなった。
「許す」とは、水に流すということ。一度リセットして互いにやり直そうという意志。
とにかく過去においての互いの正当性をぶつけ合うことはよそう、
未来を語ろうではないか、という態度。
これこそが人間性ではないか、と思う。ほかの動物ではあり得ないことだ。
 
が、愛する家族を殺されてもそんなふうに思えるか。
まず無理だ。
死刑にしてほしいし、死刑でも足りない、自分の手で惨殺してやりたい。
絶対に許せない。
そう思う人が大多数なのではないだろうか。
だからまだ死刑制度は必要なのだと思う。
現時点での人間性では、「許し」はまだ進化の途中なのだ。
許せないその思いを、死刑という制度で代償させざるを得ない。
 
が、「許し」は必ず進化すると思う。
互いの存在を抹消し合う戦争を聖戦と思い込んでいた日本人だが、
それから100年も経っていないわれわれ現代人のほとんどは、
戦争は非人間的行為だと思っている。
進化は思ったよりも早い。
 
その時々にリアルに起こる衝撃的な事柄のすべてを
いつも冷静に「許し」の気持ちをもって受け入れることなど実際にはとても困難だ。
実際には困難なことを、ほとんどのドラマはテーマにしている。
許すことができる意志こそが、人間性の証しだからではないか。
 
リアル(事実・瞬間の真実)とドラマ(人間性の未来)は、必ずしも一致しない。
それゆえに、演劇には担うべき役割がある。
だからこそ、大きなドラマを背負っているシェイクスピアの人物たちは
いつも尊厳に満ちている。未来に向かっている。
 
 
許せないけど許す。
いやそれより、
許せないからこそ許す。
 
そんな心持ちでいてみようとふと思った。
子どもたちの魔法の言葉を使おう。
「ごめんね。」
「いいよ。」