幻となるのか、鳥取「ロミオとジュリエット」?!

http://d.hatena.ne.jp/ayanogi/20100502 秋山!!〜鳥取ロミオとジュリエット」〜
http://d.hatena.ne.jp/ayanogi/20100503 「いま」から逃げるな。

で書いたが、昨年「ハムレット」に引き続き今年夏に塾生秋山が企画していた、鳥取の高校生と東京で演劇を志す若者とのコラボレーション第2弾「ロミオとジュリエット」の実現が、ほぼ暗礁に乗り上げている。理由は、上記の日記を参照してください。
この件について、秋山、秋山のご両親、僕、そして塾生たちと連日メールやミーティングでやり取りをしてきた。このまえの日曜など7時間のレッスンのあと、9時間も話し合った(秋山、僕、塾生たちで)。まあよく話す人たちだ、我ながら&教え子たちよ。
 
結論からすると、秋山リーダーでは今年の夏はまあ無理だろう。そこで今日、僕は勝手に新たなリーダーの出現を願って、秋山が昨年秋に作成した企画書をアップした。ヤツの熱意を意気に感じる秋山の先輩後輩の諸君、秋山に代わってやってみる気はないですか。劇場は8月のお盆の時期にもう押さてあるはず、キャンセルしてなければ。もちろん、シェイクスピアでなくてもいいんじゃないだろうか。倉吉東高の伝統、OBと在校生のジョイント公演はたしか20年以上は続いていると聞いている。その倉吉東高の伝統のさらなる発展を期したのにつまずいてしまった秋山。その伝統を守るためにも、有志は誰かいないか〜?!
 
秋山にとってもこれは大切なこと。
秋山の志は、正しい。すばらしい。企画書を読んでもらえればわかってもらえるはず。若いのにいい。が、それを「やる」と宣言した限りは、そう簡単にやめるな。やると言った時点で、もうすでに人は動き出している。謝るだけですむと思うな。「やめる」ことに理解を得るのは、「やる」ときに応援してもらうよりもはるかに難しいのだ。謝るだけで済んだ場合は、人はその気持ちを理解してくれたんじゃなくて、諦めたのだ。それで自分はいいのか、という問題になってくる。
 
過ちを犯したとき「自分には資格がない」と、通常やっていたことまですべてを辞退したくなる。秋山は先日のレッスンのとき、見学を希望した。変に見学されると気になるから普通にレッスンを受けてくれ、と日野たちほかの塾生は言った。が秋山は頑として「いえ、資格がありませんから」。そんな問答のために、レッスン開始時間はすでにオーバー。これこそが自己満足。人に迷惑をかけたから謝罪しているはずなのに、そのやり方が自己中心的でさらに迷惑をかける。あほか?
それにだな、やってはいけないことをやったので謹慎・自粛します、ってのは、チュウ坊か。タバコすって停学処分の中学生だ、それじゃ。大人はじっとしているだけじゃダメなんだよ、その次に何かやるんだ、何か、すぐに。少なくとも知恵熱出るくらい考えろ。
 
秋山個人が倉吉東高の伝統に傷をつけてはいけない。どう考えてもいい伝統だ、と僕には思える。そして長い伝統だ。だからといって、今回どうしても上演する必要がある、と僕は言っているのではない。ただし、上演を中止することでの公のリスクを秋山はきちんと考えただろうか、ということが大いに疑問なのだ。「自分には資格がなくなりました。すみません。なのでやめます。」じゃ、話にならない。先輩は大人だろ、高校生にとって。
第一、今回の問題に関して、高校生のみんなは幸い具体的な被害はこうむっていないじゃないか。秋山が迷惑をかけたのは、実のところはごく少数の内輪だ。高校生にとってみれば、よく理解できないまま先輩である大人とその身内(“あやのぎ塾”含む)の勝手でせっかく楽しみにしていた舞台が中止になってしまった、と受け取られてしまう。「資格がないんだ!」と熱弁してみてもまったく意味がないのは明白、そして不信感。
 
秋山にとっても高校生たちにとっても双方に最もいい選択肢は、新しいリーダーのもとどんな形であろうが上演することだと僕は思う。秋山は責任を痛感するなら、新リーダーを見つけるべく奔走し、その同志のもと上演を実現させるべく、最大限の努力をして条件をそろえることだ。そして上演が実現可能となったら、成功に向けやはり最大の協力を惜しまないことだ。「リーダーとしての条件が自分に整ったらまたやります」じゃ、ダメなんだ。条件はそろうのを待つものじゃない、そろえるもの。そして自分がその条件を満たせないのなら、そのときこそ助力を願うのだ、懸命に。
それでもやめるのならいい。やめるという決断までに何をしたかが重要なんだ。自分の不甲斐なさだけが中止の理由なら、安直で怠慢だといわざるを得ない。
 
出会いは、ほんとうに大事だ。
秋山にとっても高校生にとっても誰にとっても。
失敗して迷惑をかけるリスクを避けるため沈黙・停滞するよりも、さらなる出会いで成長するメリットのために果敢に行動したほうがいい。事なかれ主義的な前者は悪いことは起こらないだろうが何もない、後者のほうがスリリングでワクワクする。「自分さえいなくなれば」みたいなある種の悲観が一番よくない。政治家じゃあるまいし、そんな責任の取り方はつまらない。
それに、「考える」なら、動きながら考えることだ。停止状態の思考は、意味のない悩みにしかならない。秋山は、動きながら反省するべきだ。そのための協力をいまこそ周囲に求めて得るべきだ。最善を尽くせ。
 
猛省すべき自分、高校生ら公演を楽しみにしていた後輩たち、いずれにとっても、単に停止を意味する中止では本当に損だ。個人ではなく仲間同志として何も拾うものがない。次につなげていくべきものを残すこと、それが創意工夫だ。動くしかない。どう動くかが創造活動だ。
 
目下、秋山は善処すべくすでに動いている最中かもしれない。だとしても、僕のところにいまなにも報告がない。それがいけない。理解を求めるためには、まずは身近な人から伝えることしかやりようがない。
 
我が塾生よ、鳥取の若者たちよ、鳥取賢人よ(変換ミスではない)、
理念に向かってまっすぐ飛翔するすばらしき鳥たち。
Wonderful Straight BIRDじゃ。
http://d.hatena.ne.jp/ayanogi/20100428 突き抜ける勇気。)
 
※以下の企画書ならびに資料は、昨年11月作成の未完もの。誤字脱字、文脈の乱れ多し。ご了承を。完成形は残念ながらなし。
 
企画書第3稿〜鳥取「ロミオとジュリエット」〜
企画書第3稿〜鳥取ロミオとジュリエット」〜(ワードファイル)

 
資料1〜鳥取「ロミオとジュリエット」〜
資料1〜鳥取ロミオとジュリエット」〜(ワードファイル)